上田原の戦い

天文十七年(1548)二月に発生した武田晴信と村上義清の戦い。
信玄、若干28歳。

天文十六年(1547)佐久の小田井の合戦志賀城を落城させた武田晴信は、早速、小県に侵攻を決意した。当地は葛尾城主・村上義清が支配していたが、村上氏は小笠原氏とともに信濃国で最も有力な国衆であり、これまで無敗の晴信の前に大きく立ちはだかる存在であった。

  

天文十七年(1548

一月十八日
晴信は「具足召し」(出陣の準備)を開始した(『高白斎記』)。
また「信州本意に於いては相当の地を宛行う」という朱印状を諸将に与えて士気を鼓舞した(『高白斎記』)。

 

二月一日
武田晴信は葛尾城に向かって出陣、この時、村上氏の本拠・坂木は雪深かった。(『高白斎記』)。武田軍は、諏訪から大門峠を越えて小県に入った。「細雨、夕方みぞれ」だった(『高白斎記』)。

 

二月二日
小山田信有も小県に出陣(『高白斎記』)。

武田勢は、千曲川岸の平地である上田原に陣を敷いた。
村上義清も坂木から出陣して千曲川を挟んで岩鼻に本陣を置いたという。また一説には、室賀峠を経て、上田原を一望する
須々貴城から指揮したというが、これらに史料的な根拠は無い。

 

二月十四日
両軍は上田原で激突した。(『妙法寺記』は“塩田原”とする)

-妙法寺記-

此年、二月十四日、信州村上殿近所塩田原と申所に而甲州晴信様と村上殿戦被成候。去程にたがひに見合て、川を小楯に取候而、軍をいれづ乱れつ被食候。去程に甲州人数打劣け、板垣駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内守殿、初鹿根傳右衛門殿、此旁打死被成候而、御方は力を落し被食候。去共御大将は本陣にしはを蹈み被食候。小山田出羽守殿無比類働被成候。御上意様にかせでをおひ被食間一国の歎き無限。去共軍不止。

武田軍が討ち負け、板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門尉などの大将が討死にし、武田晴信自身も手疵を負った(『妙法寺記』)。
『甲陽軍鑑』も晴信は薄手の傷を二箇所負ったとしている。

『高白斎記』『王代記』は、合戦について、板垣と甘利の討死という結果だけを記している。

板垣駿河守信方は、譜代の重臣で、一般には”信形”とされている(『甲陽軍鑑』『千曲之真砂』)。
しかし、正しくは”信方”と書く(『鎮目寺棟札』『武田八幡宮棟札』)。

 

戦いは壮絶だったらしく、山梨県富士山麓に伝わった内容では、「互いに見合て川を楯に取り、軍を入れつ乱れつ」という有様であった(『妙法寺記』)。

『妙法寺記』によれば、わずかに小山田信有のみが奮戦(「無比類働」)したというが、当寺の領主であるだけに事実か疑わしい。

 

ともかく、大名である武田晴信が追われて傷を負うようでは、あきらかに武田軍の完敗であった。
下の写真のとおり、上田原は広大な平地ゆえに、奇襲などの小手先の戦略は効かないだろう。ゆえ、村上義清は兵の扱いについては相当な巧者だったと思われるのである。


(上田原の古戦場)

しかし、晴信は、その後も上田原を撤退しなかった。

 

二月十五日
敗戦の報告が、諏訪の駒井政武に伝えられた(『高白斎記』)。

 

二月十七日
駒井は、討死にした甘利虎泰の子・甘利藤三を呼んで「兵始めて仕り始む」(『高白斎記』)。

甘利藤三はまだ若かったのであろうか、父の死を知って、慌ただしく兵を整えている。また、これを晴信の命により家督を継いだ記述とする説もある。

甘利藤三は、虎泰の嫡男・昌忠のことだとされている。一説にこの時13才という(『甲斐国志』)。

 

二月十九日
心配した駒井は、今井相模守信甫と相談し、後北様(晴信の生母・大井夫人)に事情を話し、野村筑前守、春降出雲守を晴信に遣わして、退陣の説得をしている(『高白斎記』)。

しかし、晴信は、生母の勧めも頑なに聞かなかったらしく、そのまま敵地に留まっている。

 

三月五日
ようやく晴信は諏訪上原城に帰陣した(『高白斎記』)。

 

その後、晴信は、帰国後に信州・湯村温泉で養生したという(『甲陽軍鑑』)。

 

三月十四日
甘利藤三が始めて出陣した(『高白斎記』)。
これはよく分からないが、二月十七日から準備していた彼が、どこかで初陣を果たすべく出陣したのであろうか。
『甲斐国志』甘利昌忠の初陣を、同年秋の笛吹峠(碓井峠)の戦いだったとしているが、この合戦は『甲陽軍鑑』に拠るもので、実在したか疑わしい。

 

ともかく、この敗戦に関して、武田の領土国民の歎きは限り無かったが、しかし戦争が止まないことに対する憤りも民衆にはあったようである(『妙法寺記』)。

 

『甲陽軍鑑』の評価

上田原の合戦について、『甲陽軍鑑』の記述は信用できない。

同書は、武田軍の敗因を、板垣信方(信形)が落ち着き無いため首実検の際に油断して討ち取られたように作っているが、事実とは思えない。
さらに、その年次を天文十六年八月(正しくは同
十七年二月)と誤っており、最終的に山本勘助の活躍によって武田軍が勝利したように創作している。
また、ここで死んだはずの甘利備前守が2年後の戸石合戦で生き返ったりしている。

 

しかし、『甲陽軍鑑』を一概に棄てられない面もある。

興味深い研究として、平山優氏は、『妙法寺記』に武田軍が敗戦後二十日間も「本陣にしはを蹈み」(芝を踏む)と書かれていることについて、『甲陽軍鑑』にも同様の表現・文言が散見されるのを指摘している。

これは“戦場に留まる”という意味だが、それは当時の武将にとって世間に合戦の勝利を喧伝するためのものだったとされる(『川中島の戦い』)。
すなわち、最後まで戦場に残った方が勝者だという認識があったというのである。


つまり、武田晴信は、敗戦を糊塗するため、村上氏の退陣を待ち続け、その退陣後に自身も諏訪に帰陣し、晴信は「芝居を踏まえた」ことで、勝利したと宣伝したかったのだという(前同書)。

 

小林計一郎氏は早くからそれを指摘し、晴信の「やせ我慢」だと評している(『武田軍記』)。

これらは卓見というべきであるが、逆に、『甲陽軍鑑』がまったくの後年の作といえない事実も垣間見られるのである。

戻る

くんまるブログhttp://srtutsu.ninja-x.jp/

inserted by FC2 system