『物理学と神』

 

池内 了  著

集英社新書  刊

2002年12月22日(1版)
253ページ 740円

評 価
★★★

著者・池内 了氏(いけうち さとる、1944年12月14日 - )は、天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学教授・学長補佐。名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)(1975年)。兵庫県姫路市出身(『Wikipedia』)

本書は、「物理学は、神の概念と複雑に絡みながら発展した。アインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と述べている。物理学における神の姿のドラマチックな変容を切り口に、その面白い歴史をたどる。「神はサイコロ遊びをしない」と、かつてアインシュタインは述べた。それに対し、量子論の創始者ハイゼンベルグは、サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよいと反論した。もともと近代科学は、自然を研究することを、神の意図を理解し、神の存在証明をするための作業と考えてきたが、時代を重ねるにつれ、皮肉にも神の不在を導き出すことになっていく。神の御技と思われていた現象が、物質の運動で説明可能となったのだ。しかし、決定論でありながら結果が予測できないカオスなど、その後も神は姿を変えて復活と消滅を繰り返し、物理学は発展し続けている。神の姿の変容という新しい切り口から、自然観・宇宙像の現在までの変遷をたどる、刺激的でわかりやすい物理学入門。 」というもの。

「現代の物理学者も、科学の真理を追求すると、そこに神の存在を確信する」といった本を読んだことがあるが、科学・物理学は神という形而上学・哲学と不可分の歴史にあったことを分かりやすく説明してくれる本。そして神を克服することによって物理学が進歩していった。その歴史が著者の重厚な知識を基に概観できる好著である。

著者曰く、
神の挑戦に見える謎は、実は物理学者が未知であったがための誤認であり、物理学者が独り相撲をとっているに過ぎないことが判明する。原爆という悪魔を作り出した物理学者は、もっと謙虚にならねばならないのだ。神は、物理学者に反省させるために、間違いの手駒を打ったかのように見せかけているのかもしれない。さまざまな発見をしてきた物理学だが、物理学者は未だに仏の掌をうろうろしている存在でしかないのである

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