仁科盛信
仁科(にしな)氏は、平姓で、安曇郡仁科御厨(長野県大町市周辺)を名字の地とする。 木曽義仲に従った後、鎌倉幕府御家人となったが、仁科盛遠は承久の乱で京方に付いたため、所領を没収された。
仁科五郎盛信(誕生年不明、一説に1557。歿年1582)は、武田信玄の五男である。 母は、武田氏族の油川信守の女で、信玄の側室・油川夫人といわれている。 幼少の頃は不明だが、『甲陽軍鑑』によれば、永禄四年(1561)仁科氏が謀叛の罪で誅せられ、信玄はその跡を五郎に継がせたという。 しかし仁科盛政一族は少なくとも永禄十年(1567)までは存続しており(『信州下之郷起請文』)、五郎が仁科氏を継いだのはそれ以降かとされている。 いずれにせよ、『甲陽軍鑑』の著者がこの内容を改竄する必要は無いので、時期はともかく、史実であろう。
五郎は、騎馬百騎を与えられ、森城が本拠だったと思われる。天正年間の始め(一説には天正九年)には、信州高遠城に配置され、副将に小山田昌行が付けられた。小山田昌行は、猛将として知られた小山田昌辰の子で、都留勝山城主・小山田氏とは別流だという。
天正十年(1582)武田氏征伐に際し、織田信長軍が高遠に迫ると、決死の覚悟でそれを迎え撃った。
二月二九日、攻め手の大将であった織田信忠は、五郎に書状を送って降伏を促した(『武家事紀』)。 「武田勝頼は不義なので退治する。木曾、小笠原らも降伏した。上飯田、大島まで自落したのに、城を堅く守っているのは神妙なことである。しかし、勝頼は昨日、諏訪を退き退いている。早速、出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにするし、黄金百枚を差し上げる。」 これに対して五郎は、籠城衆一同の名で、ただちに返書をしたため、使者だった僧侶の耳と鼻を削ぎ落して送り返したという(『武家事紀』)。 「信玄以来、信長に対しては遺恨を重ね持っている。ようやく残雪も無くなったので、勝頼は尾張・美濃へ織田討伐として動き、鬱憤を晴らそうかと思っていた。ところがそちらが発向していたので籠城しているまでである。一端一命を勝頼に武恩として報いるものであり、不当不義の臆病な輩と同じにしないでもらいたい。早々に馬を寄せて攻められよ。信玄の頃から鍛錬してきた武勇・手柄をお見せしよう。」
三月一日、織田軍は、飯島から軍を動かし、すでに降伏していた松尾城主・小笠原信嶺の先導で、浅瀬を渡って大手口まで攻め寄った。 彼らは何という体たらくであろうか。
翌二日早朝、決戦に至る。『信長公記』には、高遠城の戦いが次のように書かれている。 「火花を散らし相戦い。おのおの疵を被り、討死は算を乱すに異らず。歴々の上﨟・子供、一々に引き寄せ引き寄せ、差し殺し、切って出て、働くこと申すに及ばず。ここに、諏訪勝右衛門女房、刀を抜き切って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。また、十五・六の美しき若衆一人、弓を持ち、台所の詰まりにてあまた射ち倒し、矢数射ち尽くし、後には刀を抜き切りてまいり、討死。手負死人上を下へと数を知らず」 仁科五郎は、副将小山田、士隊長18名らとともに壮絶な討死をした。武田軍の頸は400余だったという(『信長公記』)。 五郎は、最後、自らの腹を十文字に斬り、はらわたを掻き出し投げ捨てて果てたとも伝わる。 時に26歳という。
五郎の頸は織田信長の元に届けられた(『信長公記』)。織田軍が引き上げると、勝間村の農民が五郎らの屍を探し出し、村の若宮原で火葬し、村の西の山に埋めた。以来この山は”五郎山”と呼ばれるようになったという(『現地説明板』)。
武田一族すら続々と勝頼を見捨てる中で、仁科盛信とその家臣、一族たちは、なぜかくも壮絶な抵抗をしたのであろうか。 この戦いの直前に、織田信忠と五郎の間で、若武者同士の武士道を讃えるやり取りがなされたという伝説がある。 あるいは、五郎は若武者として素晴らしいカリスマ性を持っていたのかも知れない。
武田氏滅亡という暗い歴史の中で、唯一、織田軍に一矢を報いた仁科盛信は、名族・武田氏の最後の輝きである。 今、高遠城を見下ろす五郎山に五郎を祀る祠がある。
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