上泉信綱

上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)

上泉秀綱、上泉伊勢守、上泉武蔵守、大胡武蔵守とも。

箕輪城主・長野家の家老。剣豪として著名。史上最強と謳われ「剣聖」とも呼ばれる。

 

生没年不詳、一説に永正五年(1508)~天正元年(1573)。父は大胡城主・大胡秀継だとされる(『上泉系図』)。
正親町天皇の御前で剣術を披見して、「天下随一」と嘉賞され、異例ながら従四位下に叙任、
「新陰流」を創設して多くの門下を持った。

高弟には柳生宗厳、宝蔵院胤栄、疋田文五郎らがいる。また九州出身の丸目蔵人佐を従えていた。

しかし、確実な史料に乏しく、明確な事跡は不明である。戦国史の権威・高柳光寿氏は、「伊勢守信綱については、良質の史料が少ないので、詳しいことはわかりかねる」と述べられている(『戦國の人々』)。

 

上泉城跡

若干14、15歳の頃に、上泉城の脇にある菩提寺で禅の修業をしていたが、その後、鹿島に赴いたという(『正伝新陰流』)。
上泉は香取・鹿島で兵法修行したらしく、「三好の氏族・日向守愛州移香」が発明した陰流を習ったと伝えている(『上泉主水泰綱伝』)。

一説には、天文二十四年(1555)北条氏康によって大胡城を追われると、上泉の地に蟄居したという。大胡家(上泉家)らは上杉謙信に好意を寄せていたので、後北条氏が猛攻を加えたのだという(『北越軍記』)。

上杉氏に属した大胡家は、長野業正に従った。弘治三年(1557)武田軍が長野氏の箕輪城を攻めた際は奮撃した将のひとりとして「上泉伊勢守」の名がある(『北越軍記』)。

この辺り、後年の史料では、彼が上泉城か大胡城のどちらに拠っていたのか混同されて分からない。

 

箕輪落城

ともかく、長野氏の配下として合戦で何度も手柄を挙げたので「上野国一本槍」と称され、「長野家十六槍」に名を連ねたという(『撃剣叢談』)。

『甲陽軍鑑』によれば、「永禄四年(1561)箕輪落城の際、武田晴信は二百騎余りの武士を召抱えたが、その中に上泉伊勢守が含まれていた。彼は誉れ高い侍であったが、「愛洲移香斎の愛洲陰流などを習っていたので、”新陰流”を立て、兵法修行をしたい。」と申し述べ、晴信の許しを得て出奔した」という。
また、この時に晴信から「信」の一字を賜り、信綱と称するようになった(『甲陽軍鑑』)。

しかし、箕輪落城は確かな史料では永禄九年(1566)のことなので(『長年寺古文書』)、この『甲陽軍鑑』の記事は問題が多い。
『箕輪軍記』も永禄四年落城としているが
『甲陽軍鑑』の影響であろう。


(箕輪城)

後述の史料から、上泉は箕輪落城の永禄九年(1566)にはすでに西国に赴いている。永禄七年(1564)には上洛したと考えられ、早く浪人になっていたらしい。
したがって、信綱は上泉家の当主というような立場ではなかったのかも知れない。

要するに、これまでの史料はほとんど信頼できないのである。

 

諸国遍歴の旅

旅の途中、尾張の村で、ある浪人が子供を人質に民家に立て籠もっていた。そこで上泉は頭を剃って僧侶の格好をして相手を油断させ、一瞬の隙を見て子供を助け出したという(『本朝武芸小伝』)。一説に、これは尾張一の宮の妙興寺の門前であったという(『明話之目録』)。

また、弟子の虎伯とともに三河牛久保(愛知県豊川市)に訪れ、虎伯が山本勘助と立ち合った。最初は勘助が負け、次に勘助が勝ったが、最初の敗戦だけを喧伝されたため、勘助は面目を失って牛久保の地を離れたという(『武功雑記』)。
しかし、勘助は
永禄四年(1561)に死亡しており(『甲陽軍鑑』)、事実とは考えられない。

なお、『上泉主水泰綱伝』には、北条綱成が上泉を慕っており、その術を見て大いに喜んだというような記述もある。さらには、古河公方・足利義氏が上泉を師として招き極秘の兵書を許されたという(『甲陽軍鑑』)。これらも信用できない。

その後、剣豪大名として名高い北畠具教が上泉一行を快く迎え、弟子の疋田文五郎が具教の用意した武士らと決闘したがいずれも圧勝であった。その後、具教の紹介で奈良の宝蔵院に向かったという(『本朝武芸小伝』)。

 

(柳生の里)

柳生の里には3年間滞在した。そして疋田文五郎を柳生家に留め、みずからは諸国遍歴の旅を続けた。後年、上泉が柳生家を再度訪れた時、柳生宗厳の兵法は上泉を凌駕していたので、上泉から「師」と呼んだという(『本朝武芸小伝』)。

ちなみに、『本朝武芸小伝』は正徳六年(1716)の成立で、信憑性の低い俗書とされる(高柳光寿氏)。

 

天下無双

戦国時代を代表する剣豪・柳生宗厳、丸目蔵人佐、宝蔵院胤栄、疋田文五郎らは、いずれも
弟子である。

 

永禄七年(1564)、弟子の丸目蔵人佐とともに、剣豪将軍・足利義輝に謁見し、「上泉の兵法は古今に比類なきもので、天下一である。丸目の太刀打ちは、これまた、天下の重宝である」との感状をもらっている(『丸目家文書』)。

丸目蔵人佐丸目長恵、まるめ・ながよし)は、塚原卜伝に新当流を学んだとされ、“西国随一”と呼ばれた剣の達人。
上泉よりも先に上洛していたが、信綱に出会うまで立ち合いで不覚をとったことは無かったという。
タイ捨流兵法の祖として有名である。

永禄十年(1567)丸目に、新陰流の印可状を与えている(『蒲池文書』)

印可状には「上泉伊勢守藤原信綱」と署名し、
「諸国において兵法の仁をあまた指南したが、貴殿が一段と器用な兵法者であることから、極意のことをはじめとし残らず伝授した。」
と記してある。
この書では、
「新陰流には殺人刀と活人剣が両立してあり、軽々しく人に教えてはならない」
と言っている。

 
(柳生の里)

永禄八年(1565)柳生宗に、新陰流の印可状を与えている(『柳生家文書』)。
曰く、
「この信綱は、幼少のころから兵法と兵術に志があった。天下の人々にこれを伝授せんがために上洛したところ貴殿と参会し、ひとつ残らず伝授した。上方では数百人の弟子を持つことができた。」
この書では「上泉伊勢守藤原秀綱」と署名している。

柳生宗厳やぎゅう・むねとし)は、”石舟斎”で著名な日本を代表する剣豪。
上泉に試合を申し込むものの、弟子・疋田豊五郎にさえ完敗したという。
土豪ながら戦国時代を通して領土を守り、徳川家康に無刀取りの術技を披露している。「柳生新陰流」を誕生させ、柳生家は徳川幕府入りを果たし小大名となった。

 

永禄八年(1565)宝蔵院胤栄にも同様の印可状を与え、「上泉伊勢守藤原秀綱」の署名をしているという(今村嘉雄氏)。

宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)は、興福寺の僧兵であり、宝蔵院の主だった。「宝蔵院流槍術」を創設。これは十文字鎌槍を用いるもので、日本最大の槍術流派として発展した。

 

疋田文五郎(疋田豊五郎、疋田景兼、ひきた・ かげかね)は上泉の最古参の弟子ともされる。柳生宗に圧勝したとする史料もある。「疋田陰流」の創始者。

 

『言継卿記』の上泉信綱

元亀元年(1570)山科言継の求めに応じて兵法を公開し、朝廷の公家らと将棋や双六(すごろく)などを打ち興じている(『言継卿記』)。

同年六月には言継らの要請で従四位下、武蔵守に叙任。京都御所への昇殿も許された(『言継卿記』)。

 


(第106代天皇・正親町天皇)

京都御所では、御殿の庭で、弟子の神後伊豆を相手に、新陰流の基本型と猿飛の秘術を実演した。
正親町天皇は「竜眼」(天皇の眼)で見入られたが、秘技が終わると、満座の人々と喝采をお送りになられた。
上泉は御前に最敬礼し、あまりの栄光に感涙を流した(『言継卿記』)。

将軍・足利義昭(義輝の弟)もこの日に剣術を鑑賞しており、翌日、上泉を二条城に招いて酒杯を与えた(『言継卿記』)。

元亀二年(1571)七月二十一日、山科言継に上州へ戻ると言って暇をもらい、京都を去っている(『言継卿記』)。

山科言継によれば、上泉は「公方など、ことごとくの人々に対して兵法・軍配を相伝し、比類なき名誉を得た」という(『言継卿記』)。

 

上泉信綱のその後

『上泉主水泰綱伝』によれば、後北条氏に招かれて、小田原で没したという。しかし、同書の性格からして信用できない。

元亀二年(1571)七月二十二日、山科言継に依頼し関東大名・結城氏への紹介状を書いてもらっている(『言継卿記』)。
彼がその文書を持参して結城
晴朝の元に行ったのかは分からない。

 

その後、確実な史料には彼の名は見えなくなっている。どこに行ったのか、どこで死んだのかも明らかでない。

史上最強の剣豪に相応しい末路と言えるのかも知れない。

 

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