真田幸村

  

真田幸村(永禄十年-慶長二十年・15671615

正しくは、真田信繁、真田左衛門佐信繁。

直筆書状に"信繁"とあり、同年代の史料に「幸村」とは出てこない。
江戸時代の軍記物『難波戦記』が"幸村"と記したのが流布したらしい。同書がなぜ"幸村"と記したのか分からない。他に"信仍"とも呼ばれるが、いずれも『藩翰譜』など後年の史料・講談本により、史料の裏付けはない。

なお、"信繁"という名は、武田信玄の弟・武田信繁の名将ぶりをあやかってのものという巷説があるが、確かな史料にはそのような事は書かれていない。しかし、一概に否定できないとも思う。

 
(信繁の署名)

謀将・真田昌幸の次男として永禄十年(1567)甲府で出生した。母は、宇田下野守頼忠の娘とも菊亭晴季の娘とも。

幼名は「お弁丸」、のちに「源次郎」と改名した。

 

幸村は、真田家を継ぐことはなく、45歳まで父・昌幸に付き添っていた。したがって、大坂城に入るまでの彼に関する史料は豊富とはいえず、不明な点が多いのも事実である。

 

幸村の幼少時代

 

天正十三年(1585)真田家は、徳川家康に背いたが、上杉景勝の保護を求めるため、八月二十日過ぎ、幸村は人質として海津城に入った。
幸村には矢沢頼幸(矢沢城主・綱頼の嫡男)と同心衆(騎馬5名、東松本の足軽12名)が差し添えられた(『矢沢文書』)。

同年八月、家康は上田城に真田氏を攻めた。

真田昌幸は、景勝に「信繁を越後に被官に差し出す」と言ってきたので、上杉軍は五千の兵を真田館に派遣したという(『景勝一代略記』)。
実際に、援軍は曲尾城まで来ており、幸村に同道していた
矢沢頼幸がこの一大事に実家まで帰っていたと思われ(柴辻俊六『真田昌幸』、『矢沢文書』)、同様に、幸村も地元に戻っていた可能性が指摘される。幸村17歳。

この後、上杉氏の本拠・春日山城へ赴き、景勝に勤仕したという。

さらに、天正十四年(1586)六月、景勝の上洛の際、昌幸は幸村を呼び戻し、豊臣秀吉に人質として差し出されたという。

 

若き幸村の戦い

 

天正十八年(1590小田原の役では、前田利家・上杉景勝の先鋒として松井田城、箕輪城八王子城を攻めたが、これが幸村の武将としての初めての戦いとされている。しかし、その詳細は一切伝わっていない。幸村24歳。
また、この頃、大谷吉継の娘を娶ったという。

文禄三年(1594)従五位下・左衛門佐に叙任された。「豊臣」の姓を与えられ、「豊臣信繁」と記された史料がある(『柳原家記録口宣案』)。

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは、昌幸とともに再び家康に反旗をあげた。
真田氏は東西に分かれたが、父子の談合において、幸村は「秀頼から恩は受けていないが、家康の所業は腹に据えかねるものがあり、三成の挙兵はこれを糺すための義
挙であり、こういう時にこそ家を興すべきである」と主張したという(『真武内伝』『野史』)。

徳川秀忠は、真田昌幸・幸村の籠る上田城を攻めた。

徳川軍は城のまわりの稲を刈らせたが、城から三百人ほどが討って出た。これに対して本多忠政の隊が攻め込み、城の木戸まで押し寄せた。この時、幸村が城門を開けて一丸となって突進したために徳川軍は敗戦したという(『異本上田軍記』)。

 

九度山への配流

 

関ヶ原後、真田昌幸・幸村は九度山に蟄居となった。家康は二人を死罪にしようとしたが、兄・信之の懇願で一命を赦されたとされる。
慶長五年(
1600十二月十二日、高野山へ出発し、池田長門ら十六人の従士を連れて蓮華定院に入り、のちに山麓の九度山村に屋敷を構えて移った。父子は別々に屋敷を持ったらしい(桑田忠親『日本部将列伝』)。

幸村は妻の大谷氏と三人の女児を連れ、九度山においても女児3人、男児2人をもうけたという。

配流先では、狩や囲碁をやって過ごし、深夜まで兵書を読み、昌幸と問答を交わし、近隣の郷士と兵術や鉄砲の鍛錬をしていたと伝わる(『真武内伝』)。

 

高野山配流の十一年目、慶長十六年(1611)父の昌幸が逝去した。昌幸の近侍のほとんどは信州上田に帰り、45歳になった幸村の身辺は寂しくなったという。

 

慶長十七年(1612)入道して「好白」と号する。

この頃、真田家の重臣・木村土佐守綱茂に、お歳暮の鮭を送ってもらった礼をしている。その中で、
「こちらの冬は不自由にて、いっそう寂しく思う。私のうらぶれた様子を使者が話すだろう。もはやお目にかかることはない。とにかく歳を取って残念である。」
と、その当時の心境を吐露している(『木村綱茂宛書状』)。

 

幸村の容貌

幸村自身で「急に歳をとり、病身となって、歯も抜けた。髭なども黒いところは無い」(にわかにとしより、ことのほか病者になり申し候。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候)
と述べている(『木村綱茂宛書状』)。

また、「額に二、三寸の傷があり、小柄な人」であったと、後藤又兵衛の近習が語っている(『長沢覚書』)。

 

幸村の文芸

天正十三年(1585)秋、人質として海津城にいる時に連歌を巻いている(『松代俳諧史』)。
また春日山城でも連歌が好まれており、幸村は参加していたのかも知れない(『越佐史料』)。

その三十年後、九度山において真田家の重臣・木村綱茂に書状を送り「そちらは連歌をしているそうだが、こちらでも徒然草などを見ろと奨められている」と言っている。また、別の書状でも「対面して一巻連歌を巻きたいものだ」と言っている(『木村綱茂宛書状』)。

 

 

大坂冬の陣

 

(真田丸周辺地図)

 

慶長十九年(1614)十月ごろ、豊臣秀頼の使者が九度山に訪れた。幸村は大坂入城を決意。
十月九日、周辺の百姓数百人を屋敷に招いて酒宴を開き、彼らが酔いつぶれたところを見計らって山里を出たという(『武辺咄聞書』)。この時、鉄砲と刀槍を抱えた百人ばかりの勢であったため、途中の村の人々はその通過を止められなかったという。

『九度山町史』によれば、田所庄衛門らの地侍が加わっており、村の人々の人望を集めていた一端がうかがえる。
また、多くの兵が信州から来たともいわれる(『真武内伝』)。

 

翌十日(九日とも)大坂城に入った。この時、「のぼり、指物、具足、兜、ほろ以下、上下ともに赤一色」だったという(『大坂御陣山口休庵咄』)。

秀頼は幸村を歓待し、黄金二百枚、銀三十貫を贈って、勝利のあかつきには五十万石を与えると約束した(『駿府記』)

徳川家康は、真田入城の注進を受けた際、「親か子か」と聞き返し、手のかかった仕切り戸がガタガタと鳴り渡るほどに震え、恐怖を見せたという(北島正元『日本の歴史』)。

 

同年十一月、徳川軍が攻め寄せた。幸村は最初の軍議で「初めから籠城するのは得策ではなく、城を討って出て、時間を稼ぐうちに敵にも内応者が出るだろう」と積極的な交戦を主張したという。これには後藤又兵衛も賛同したが、大野治長らが反対し幸村の話は採用されなかったとされる(桑田忠親『日本部将列伝』)。

しかし、この軍議で幸村の持ち場が決められ、城の弱点に出丸を築いて守ることとなった。これが“真田丸”である。

 
(真田丸跡)

 

~真田丸の造り~

真田丸は、「大坂城玉造御門の南、一段高い畑のあった所に、三方に空堀を設け、塀を一重にかけ、柵を三重に付け、櫓や井楼があった」(『大坂御陣山口休庵咄』)。
また、「その形は新月に似ており、周りに空堀を巡らし、東西に長く南北に短かった」(『武徳編年集成』)。

「父子の人数六千人で籠り、狭間は一間に六つ切ってあり、狭間ひとつに鉄砲三挺ずつ並べた」という(『大坂御陣山口休庵咄』)。


(真田丸古図と現在の航空写真)

『慶長見聞書』を引用する。
「大坂惣手辰
巳門、真田左衛門左持口、門の前橋を越、惣構より二町半ばかり、敵への張出し、取手をかこひ、成程丈夫に大木材をもって普請いたし、から堀をほり、菱をまき、申すに及ばず成程手つきよく持詰、へいを一間と破られ申さず候」

 

~真田隊の猛勇~

十一月二六日から交戦がはじまったが、十二月三日の戦いでは、真田勢が徳川軍を散々に打ち破った。功を焦った攻め手が深入りしたところを幸村らが一斉に攻撃し、「弓矢・鉄砲は雨が降る如くで、死傷者は数え切れなかった」(『大坂御陣覚書』)。

真田丸の手前には「篠山」という小山があって、ここに陣していた幸村隊によって前田利常隊は連日死傷者を出していた。このため前田利常は篠山を強襲したが、人影が無い。さらに真田丸に突進したが何の反応もないので空堀を渡り始めた。そこで幸村は夜明けを待って一斉に攻撃を仕掛け、ことごとく敵を倒したのだという。

幸村隊の射撃は正確だったが、これは九度山時代に共に遊猟した猟師を多数引き連れていたからともされる。

 

翌四日には、松平・前田隊の猛攻を受けたが、嫡男・大助も奮戦し、松平隊480騎、前田隊300騎、その他雑兵多数を討ちとって、その評判は京都にまで及んでいる(『孝亮宿禰日次記』)。

家康は、幸村の際立った活躍を見て、叔父・真田信尹(信昌とも)を使い、十万石、次に信濃一国を報酬に寝返るよう、二度誘った。
しかし、幸村は「乞食の様な生活をしていた私を召し出し、曲輪のひとつをまかせてくれた秀頼の恩顧に答える」とも「ご
恩は土地や金には到底代えられない」と断った。さらに本多正純も寝返りを誘ったが、使者に会いすらしなかったという(『慶長見聞書』『真武内伝』)。

結局、大坂冬の陣は和睦したが、大坂城の堀は埋められ、豊臣軍は丸裸にさせられた。

 

大坂夏の陣

 

夏の陣までの間に、幸村が信州に送った文書が数点残っている。

元和元年(1615)一月、大坂城中から上田の姉・村松宛て(『小山田家文書』)
「思わぬことから合戦になり、大坂に参りました。奇妙なこととお思いでしょう。ともかく戦いが済んで生き残りました。明日はどうなるか分かりませんが、今のところ何事もなく過ごしています」

 

二月十日、石合十蔵(幸村の娘すえの夫)宛て(『長井氏所蔵文書』)。
「私どもは籠城の上は、決死の覚悟ですから、もうお会いすることはないでしょう。娘すえの事、どうかお見捨てなきようお願い致します」

 

三月十日、姉婿・小山田壱岐宛て(『小山田氏文書』)。
「秀頼様のご懇意がひとかたならないのは良いのですが、城内はいろいろ気遣いが多い。何かとお目にかかりたいと思います。懐かしいことは山のようです。定めなき浮世のことですから、一日先のことは分かりません。私たちのことなどは浮世にいるものと思わないで下さい」

 

遠く信州を想う気持ちと、二度と信州には帰ることが出来ないという決死の覚悟が伝わってくる。

真田信繁書状

様子御使可申候。当年中も静かに御座候者、何とぞ仕、以面申承度存候。御床敷事山々にて候。さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事候。我々事などは、浮世にあるものとおぼしめし候まじく候。恐々勤言

三月十日 真左衛門佐信繁(花押)

 

元和元年(1615)五月、家康軍は再び大坂を囲んだ。

五月五日、後藤又兵衛、幸村らが打合せをし、翌日六日、道明寺で落ち合って、奇襲をかける約束をした。しかし、なぜか幸村は遅延してしまい(一説に濃霧のため)、後藤らは討ち死した。

作戦が失敗に終わった豊臣軍は、止むなく大坂城に退却したが、この時、幸村は殿軍を務めて追撃する伊達軍に反撃した。
伊達政宗はその強さを恐れ、攻撃を中止した。真田隊は諸隊を退却させた後に、悠々と引き上げていったという(『北川覚書』)。

この後、大坂城での軍議で、幸村は秀頼自らの進軍を強く要請したとされる。

 

 

真田幸村の最後

翌七日朝、幸村は茶臼山に布陣した。茶臼山に真っ赤なのぼりを立てて、赤一色の鎧兜で固め、東には真田大助が控えていたという(『大坂御陣山口休庵咄』)。

 

 

毛利勝永、大野治長、明石全登らとともに敵を待ち構え、敵の正面から真田隊が突撃し、混乱させたところで背後から明石隊が挟撃するという幸村の作戦だったという。しかし、明石隊が配置につく前に城方の兵が勝手に鉄砲を撃ってしまい、期待していた秀頼の出陣もなく、真田隊は劣勢に陥った(桑田忠親『日本部将列伝』)。

幸村は死期を察し、嫡男・大助を秀頼の最後を見届けさせるために城に戻し、正面の松平忠直隊に突撃した(『真武内伝』)。
幸村を先頭に、それぞれ念仏を唱えながら、死に物狂いで突撃して行った(『北川覚書』)。

真偽は不明だが、「今は是までなり。最後のいくさを快くなすべし。」と叫んで家康本陣に駆け入ったともいう(『武徳編年集成』)。


(大坂夏の陣図屏風の真田隊。中央の黒鹿の兜が真田幸村)

 

~関東勢少し敗北~

真田隊の攻撃は壮烈で、松平隊を崩したばかりではなく、背後の家康本陣(旗本)にまで達した。

旗本らを追い散らして討ち取り、旗本でも三里も逃げた者だけが生き残れた(『薩藩旧記雑録』)。
家康本隊は混乱して四散し、最後まで家康を守っていたのは本多正重と金地院崇伝だけだったという。また、家康は、絶望して、一時切腹を覚悟したと伝わる(『耶蘇会士日本年報』)。

一説に、幸村は十文字の槍で家康目がけて突撃し、家康はとてもかなわないと思い、植松の方に退いた(『本多家記録』)。
重臣・藤堂高虎も防戦に当たったが、
「御旗本大崩」という有り様であった(『高山公実録』)。

徳川家も「関東勢少し敗北」と、その猛烈さを認め、家康本隊が押し込まれた事実を伝えている(『駿府記』)。また、家康本隊の旗が崩されたのは、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦以来だったという(『三河日記』)。

 

真田隊は、三度まで家康本隊を追い立て、家康は馬印を臥せたり隠したりして逃げ回った(『山下秘話』『銕醤塵芥抄』)。

しかし、孤軍奮闘の真田隊は徐々にその数を減らし、幸村も負傷と疲れで動けなくなっていた。休憩している幸村を松平忠直の鉄砲頭・西尾仁左衛門が討ち取ったという(『諸士先祖之記』)
享年49歳。

 

この日の幸村の戦いは「真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなく由、惣別これのみ申す事に候」と島津藩士の手紙に書かれている(『薩藩旧記雑録』)。

細川家の記録にも「古今、これなき大手柄」と記されている(『細川家記』)。

大坂城に入った真田大助は、翌日、秀頼の切腹を見て、これに殉じた。大助は、秀頼が身を潜めていた蔵の前で座っていたが、それを見た豊臣家の武士・甲斐守久が、「お前はまだ若いし、傷も負っているから逃げなさい」と何度も諭したものの聞かず、食事も摂らなかったという(『大坂御陣覚書』)。没年13歳とも16歳ともいわれる。

 

 

真田幸村は、戦国時代を代表する猛将である。

なぜこれほど強かったのかはよく分からない。
しかし、九度山に幽閉され、故郷にも戻れず、失意の中で徳川家康に一矢報いようとした強固な決意があったのは間違いない。

 

 

兄・信之が後年、幸村の人柄について語ったという言葉が伝わっている(『幸村君伝記』)。

「物ごと穏やかにして、我慢の心がある。強がらず、怒ったり腹を立てることもない人物であった。」

 

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