穴山信君


穴山信君(あなやまのぶきみ)

一説に天文十年(1541)生まれ。天正十年(1582)没。穴山氏館の主。

武田信虎の重臣だった穴山信友の長男。母は信玄の姉・南松院、妻は信玄の娘・見性院という血筋のため、武田親族筆頭であった。幼名は勝千代、長じて彦六、左衛門大夫、玄蕃頭、陸奥守、天正八年に入道して「梅雪」と号する。

 

信玄の時代から侍大将として活躍し、川中島、三方ヶ原、長篠と転戦した。いずれも本陣を固める重役であったという。

・永禄四年(1561)川中島の戦いでは、上杉軍と実戦した傍証はないが、信玄の側近として八幡原の本陣にいたとされる(『甲陽軍鑑』)。20歳。

・元亀三年(1572)三方ヶ原の戦いでは、信玄の陣に後備えとして配置されたと推定される(高柳光壽氏『三方原之戦)。
徳川軍を深追いした武田兵が犀ヶ崖で逆襲を受けた際、穴山隊が防戦に当たったという。
31歳。

天正三年(1575)、長篠の戦いで、敵の部将・鳥居勝商を捕らえたのが穴山隊(同心の川原弥太郎)だったという(『三州長篠軍記』)。
また、設楽が原での決戦について勝頼を諭したともいう(『当代記』)。
『長篠合戦図屏風』では長篠城の北の山に陣し、『甲陽軍鑑』で
は右翼からの四番目とし、『三州長篠軍記』では馬場、真田、土屋らの総大将としている。しかし、予備隊であったのは間違いないが、その陣所は不明である(『長篠之戦』)。
なお『甲陽軍鑑』によれば、梅雪は、勝頼と反目しており、長篠の戦いで戦線を離脱。これを怒った高坂昌信が梅雪の切腹を求めたと記す。
 

永禄年間は駿河、興津の城将として、江尻城などに配置され、東海最前線を防御した。
天正七年(
1579)九月、高天神城の攻防で、武田勢が大須賀勢に敗れた件について、「手合わせに及ばずして敗北、口惜しく候」と直筆で書いている(『渡辺慶次郎氏所蔵文書』)。

まだ武田氏のために働いていたようである。

 

 

(この当時の穴山氏の本拠)

 

天正十年(1582)武田滅亡を前に、徳川氏に寝返った。

“武田家救済を条件とした”ともいうが、梅雪の離反が武田氏滅亡の決定打になったため、後年、主家裏切りの不評を買った。

それはともかく、すでに前年(1581)秋には家康から内応の誘いを受けていた(『芦沢家文書』)。裏切った理由は、一説に、梅雪と勝頼の子供に婚姻が成立していたが、長坂・跡部の諫言によって違約となったことの恨み、主導権争いからだという(桑田忠親氏、柴辻俊六氏)。

天正十年(1582)二月二十五日夜半、風雨に紛れて、甲府から人質を盗み出した。

信長には黄金二千枚、家康には太刀、鷹、馬などを献上し、三月五日、江尻城には家康家臣の本多重次を入れ、自身は家康に合流して富士川沿いに甲斐へ道案内をした(『信長公記』)。

三月十日
一条信龍の襲撃を退治してこれを捕らえ処刑。

三月十一日
甲府善光寺に陣した織田信忠に謁見して府中の治安に当たった。この夜半に勝頼が田野で滅亡したことを知った。

三月十七日
信長が諏訪まで出陣すると、これと謁見。河内領の下山城に帰った。

四月二十五日
母・
南松院殿の十七年忌の大法営を南松院で営んだ。この法語で、滅亡した勝頼を非難し、自らが武田家を再興すると誓っている(『南松院殿十七年忌香語』)。

五月八日、西方へ出発。

五月十五日から三日間
家康に連れられて安土城に織田信長を訪ね、武田時代の領地を安堵され、歓待を受けたあとに、京都・大坂・境を見物していた。

六月一日
境の今井宗久、千利休、
松井友閑ら茶人の歓待を受け、さらに京都で信長の饗応を受ける予定だったという。

 

 

六月二日、京都を向かう最中、京都の豪商・茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。
梅雪は陸路での帰還を図ったが、山城・宇治田原で、土民に殺された。一説には家康とともに逃れる予定だったが、持病の痔が悪化して馬に乗れず、家康を見送った。数時間後に痔痛が治まり、枚方を出て、甘南備山の北麓を通って田辺の原野
(京田辺市飯岡南原)へ差し掛かったところで野盗の襲撃を受けたという。

なお、梅雪らは金品を多く所持しており、家康従者に強奪されるのを避けるために別行動をしたともされる(『三河日記』)。

フロイスは次のように書いている。「穴山殿は遅れ、また少数の部下しかいなかったため、不幸にして一度ならず襲撃され、まず部下と荷物を失い、最後には殺された」(『日本史』)。

享年42歳位。

 

穴山家は、長男の勝千代が継いだが、天正十五年(1587)夏、16歳で病死。これによって穴山氏は断絶した。

梅雪は文化的教養が高かったと伝わり、「筆法も見事にて、好事の趣あり」と『甲斐国志』に書かれている。

 

しかし、後年の評価は低く、人気もない。

彼は、戦国時代の領主の採るべき当然の事をしたのであろう。領民を守る意味もあったのかも知れない。
とはいえ、代々の恩顧を受けていた武田氏、しかも血縁関係にある勝頼を簡単に裏切り、それに刃を向け、織田、徳川に従って悠々と大坂を見物して楽しむ姿は、当時の文化・道徳感はどうあれ、その人間性が疑われる事由であろう。

このような人情・心情に関わることは、戦国であれ現代であれ、時代によって評価は左右されないと思う。穴山梅雪を殊更にかばうことは、潔く死んでいった武士たちに対して失礼以外の何物でもない。

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