一条信竜
一条右衛門大夫信竜(一条信龍とも。1530?~1582?)は、甲斐武田家・武田信虎の息子であり、武田信玄の異母弟に当たる。 誕生年は未詳だが、享禄三年(1530)ころと推察される(『武田家系図』)。信虎の八男。側室の子で、乳房を離れたころに一条家へ養子に入ったという(『甲斐国志』)。 「騎馬二百騎の侍大将。旗は白地に裾赤、七人軍将につぎて武名あり」(『甲陽軍鑑』)。 山県昌景は信竜のことを「馬鞍武具等、これほど忙しくとも常に新しく、しかも諸国のいい浪人を集めている。伊達者にして花麗を好む性質なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。
『甲陽軍鑑』は一条信竜の武勇を絶賛している。だが、確実な史料には、彼の戦歴は出てこない。これは、主に兄・武田信玄の身辺を守っていたからだともいう。 粉骨砕身をもって、武田信虎、信玄、勝頼のために戦った一族だと固く信じる。
(一条信竜の本拠地)
~歴戦の雄~ 初陣は、天文九年(1540)信濃佐久攻略とされ、10歳前後ながら一条信竜を名乗っているという(『武田二十四将伝』)。 天文十年(1541)父・信虎が追放されると、親類衆の列に加えられ、武田晴信の出陣には兄・信繁とともに常に付き添ったという。天文十一年(1541)六月に始まる諏訪攻め、伊那攻め、小笠原・村上放逐、木曾攻略、川中島合戦と歴戦に加わったという(『武田二十四将伝』)が、その詳しい内容はまったく分からない。 元亀三年(1572)三方ヶ原の合戦では、山県昌景と連動して徳川軍を撃退したという。信竜の姿は、一幅の武者絵のような颯爽とした太刀さばきだったと伝わる(『武田二十四将伝』)。 このように、一般に、武田一族の中でも武断派だとされているが、一方で外交面での史料が残されている。元亀二年(1571)五月、信玄が足利義昭の側近に出した織田信長征伐に関する書状に添え状を附し、松永久秀の老臣・周防守に対して書状を送っている。 そして、兄・信玄は、その臨終の時、信竜に「勝頼の後見人として盛り立てて欲しい」と遺言したともいう(『武田二十四将伝』)。
~長篠の悲哀~ 天正三年(1575)長篠の合戦にも参戦した。陣所は右翼から五番目とも(『甲陽軍鑑』)、馬場信房隊と隣り合わせだったともいう(『治世元記』)。 遁走する一族の中で馬場信房とともに戦場に留まって同陣した(『甲陽軍鑑』)。この時に、一条信竜の同心の“和田”という者が馬場と問答をしたという。和田が馬場に下知を求めると、馬場はにっこり笑い「逃れるよりほかはあるまい」と答えたという(『甲陽軍鑑』)。 そして信竜は、武田勝頼の戦場脱出を確認してから退却したと言われている。 勝頼は、敗戦後、国許の「上野介」(一条信就か)らに書状を送って、「先鋒は敗北したが、無事である」と事実を取り繕った連絡をしている(『新編会津風土記』)。苦しい内容だが、勝頼が言い訳をする必要があるほど、一条家はかなりの存在感があったのだろうか。
(一条氏の上野城)
~一条氏の最後~ 一条信竜の没年については史料によって異同がある。(諱の特定が困難) 信竜の子・一条上野介信就(のぶつぐ)は、天正十年(1582)三月の甲州崩れで、上野城(山梨県西八代郡)に籠もった。 一条信就は、徳川先手衆と交戦し落城、「撃ちて殺された」という(『甲陽軍鑑』『甲斐国志』)。 また、上野城籠城では、三月十一日、信竜、信就の親子が決死の抵抗をし、玉砕したという伝承が地元に残るという(『武田二十四将伝』)。この日付は勝頼が田野で生害した日である。 一方、『信長公記』によれば、三月七日に織田信忠は甲府に乱入した。「一条蔵人」の私邸に陣を構え、残党狩りをして、「一条右衛門大輔、清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・武田上総介・今福越前守・小山田出羽守・正用軒(武田信廉)・山懸三郎兵衛子(昌景の子・隆宝)が残らず成敗された」と記す。
以上の史料を総合すると、『甲斐国志』『甲州安見記』『甲乱記』は『甲陽軍鑑』によったものと思われる。誤謬もあり、武田氏滅亡の三月十一日には一条氏はすでに亡くなっていただろう。 『甲陽軍鑑』の内容は不自然な点がなく事実と考えられる。上野城で討死したのか、織田信忠のところに差し出されて成敗されたのかは明確でないが、三月七日から遠くない日に戦死したのであろう。いずれにしても「市川口」は重要な要衝であり、一条氏が、ここに位置する上野城で一戦を交えたのは史実と思われる。
これらから推察される状況は、「三月七日に織田信忠が甲斐入国。遅れて徳川家康が富士川沿いから乱入し、上野城を落とし、一条氏は降伏し、縄目を受ける。その他の武田残党とともに、織田信忠のところに連れ出され斬首された。」こんなところが史実ではなかろうか?
~武田氏滅亡~ 武田勝頼は、新府城から田野へ逃避する道のりで、古府中に入り、「一条右衛門大夫」の屋敷で休憩をとったという(『甲陽軍鑑』)。 武田勝頼の逃避行・滅亡時に、一条信竜が存命だったのか、信就が跡を継いでいたのかは、以上のとおりはっきりしない。しかし、最後まで武田氏に従い、ともに散っていった事は間違いない。自落して逃げ惑うのではなく、城に籠もって立派に甲斐武士の意地を見せ付けている。これは仁科五郎とともに、賞賛に値するものであろう。
このような一条氏ゆえに、子孫たちは、自分らが子孫であることを隠して生きなければならなかったという。そして文書・史料なども処分されたらしい(『武田二十四将伝』)。一条氏の歴史が判然としないのは、そこに理由があるのかも知れない。 一条信竜の墓・位牌は善福寺(山梨県西八代郡市川三郷町市川大門)に残っていたが、火災により灰燼と帰し、早く江戸時代から法名すらも分からなくなったという(『甲斐国志』)。 武田信玄の弟として戦国最強軍団の一翼を担った武将としては、あまりにも哀しい末路と言わざるを得ない。
|