前田利家と賤ヶ岳の戦い

柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)四月のことであった。

前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。
利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨むこととした。

利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃、勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出したらしい(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。

三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく利家は勝家本陣にいた(『富田文書』)。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置されたらしい(『近江輿地志略』)。

この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。


 
(別所山砦・滋賀県教育委員会)

 

その後、「西の方二ヶ所」の抑え(『太閤記』)、つまり、堂木山城・神明山砦の抑えにまわり(『江州余吾庄合戦覚書』)、茂山に移動したとされている(高柳光寿氏)。

 

四月二十日、中川清秀の戦死、佐久間盛政の侵攻などの報告を受けると、秀吉は大垣から木ノ本に急行した。実に迅速で驚くべき古今稀有の行軍であった(『秀吉事記』『豊鑑』)。

この夜、秀吉は利家に使いをやって「合戦がはじまったら裏切りを頼む。しかし貴下の心中は察している。ただ傍観してくれれば裏切りと同様に考える」と伝えると、利家は「裏切りは困る。中立的態度をとる」と返事をしたという(『川角太閤記』)。

~前田利家の背反~

佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 

この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。

 

~柴田勝家の器量~


(柴田勝家画像)

柴田勝家は、劣勢を挽回しようと戦場に踏みとどまったが、ついにその流れを変えることはできず、止む無く居城・北ノ庄に逃れた。その途中、府中(福井県越前市)に入り、前田利家に年来の交誼を謝した(『秀吉事記』)。


(府中城跡)

 

-前田家の説-

勝家が府中城に入城する時、利家の家臣は勝家を討ち取るように進言したが、利家はこれを押し留め、自ら具足を着たまま町に出て対面した。勝家が「面目ない」旨を伝えると、利家は「合戦の習い是非ない次第である。北ノ庄で防戦するがよい。私はここで持ちこたえる」と答えたという(『村井重頼覚書』『利家夜話』)。そして勝家は、利家に「秀吉と親しいのであるから和を講じるよう」に勧めたという(『前田家譜』)。
しかし、これらの前田家サイドの伝える話に、高柳光寿氏は疑問を呈している。確かに面目がないのは利家の方だし、防戦するのならもっと前(権現坂において)にすべきである。

つまり自家の格好の良いように記しているのである。

-他の説-

勝家は、府中で利家と会い、これまでの利家の骨折りに対して感謝を述べ、「運命かくのごとくなっては何ら報いることはできない。この上は必ず秀吉を頼むように」と言った(『賤ヶ岳合戦記』『余吾物語』)。

そして、その裏切りを責めることなく、年来の交誼を謝した上、こころよく湯漬けと馬を所望したという(『賤ヶ岳合戦記』『余吾物語』『太閤記』『続本朝通鑑』)。

勝家は、「利家殿はもともと秀吉と親しい間柄なのであるから、将来は和平して回復し、家の安泰を図られるがいい」と助言をして立ち去ったという(『野史』)。

 

これを「何とも心温まる行為」と高柳光寿氏は評している。

 

しかし、柴田勝家とは、何と器量の大きい男であったのだろうか。

自分の軍勢に属し、重要な持ち場につけながらも、敵と一戦を交えることなく逃亡。それが主たる要因となって全軍敗戦に及んだにもかかわらず、すべての責任をかぶって「長年の交誼に報いることができない」と述べる。
当時、前田利家謀叛の噂は世間に流布していたのであり(『当代記』)、当然勝家も見通していたであろうが、そんな事はお首にも出さず、今後の前田家の進むべき道まで指南している。さらには利家の人質も無傷で返却しているのである。

この潔さは、戦国随一の猛将の名に負けてない。

 

 

~羽柴秀吉との講和~

秀吉は、堀秀政を使いにやって、利家との講和を図った。しかし利家は、ひとまず、北ノ庄に人質がいるので拒絶したという(『村井重頼覚書』『利家夜話』)。

はじめ利家は、秀吉に対して防戦の構えを見せ、鉄砲の打合いがなされたという(『村井重頼覚書』『利家夜話』)。
このあたりは事実ではないかとされる。「秀吉の本当の意中はわからない。一度は防戦の態度を取るのは当然である」(高柳光寿氏)。

 

-『川角太閤記』の説-

今度は、秀吉自身が利家との面会に臨んできた。

秀吉は、軍勢を遠くに控えさせたまま、ひとり大手の城門に近づき、利家父子の安否を問うた。
さらに前田隊で戦死した者がいないか問い、5、6人あったという返答に「乱戦であったから致し方ない」と言って、あたかも狩りの途中で旧友を訪問したかのごとき振る舞いで城内に入った。
城内で利家の妻に会って、「今度の戦いは利家殿が勝たせてくれた」と述べ、利家妻は秀吉の戦勝を祝した。
さらに利家父子と歓談して、湯漬けを所望するなど、少しも敵の敗将に対するといった気配を見せなかったという(『川角太閤記』)。

この『川角太閤記』の記述を高柳光寿氏は「さすが」と高く評価している。それは”利家が秀吉を勝たせた”と言わせている点で、史実のツボをついているのであろう。『川角太閤記』は誤りも多いようだが、本能寺の変における記述も高柳氏はこれを採用している所が多い。

なお、『川角太閤記』は、江戸時代初期に書かれたとされる豊臣秀吉に関する逸話をまとめた書籍。田中吉政に仕えた川角三郎右衛門が当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」という体裁である(『Wikipedia』)。川角の身分が低く、史実を見誤った点も散見されるが、歴史の核心をついている箇所や、本書にしか見られない記述もあって、一定の史料的評価のできる史書である。

 

しかし、この秀吉の行動は、”人たらし”の面目躍如であるし、常人にはマネのできない天下人の気風を感じさせる。

 

-前田利家の降伏-

利家は秀吉に対して、講和の条件として勝家の助命を求めた。秀吉がこれを受け容れたので降ったという(『前田家譜』)。
しかし、このあたりは前田家に都合のいい記述で、信憑性は否定されている(高柳光寿氏、岩沢愿彦氏)。

 

通説では、「勝家の追撃を目的とする秀吉の講和条件は大ざっぱで、とも角も利家を許したのであろう。」といわれている(岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』)。

 

北ノ庄にあった利家の人質である「まあ」は、勝家が送り返した(『前田家譜』)。
利家方が盗み出したという説(『太閤記』)は、史実ではない(高柳光寿氏)。

 

その後、利家は羽柴軍に加わり、その先鋒となって、嫡子の前田利勝には「馬の口取り両人の体」で秀吉の近くを進ませたという(『川角太閤記』)。

北ノ庄城で包囲された勝家は、秀吉に降伏の申入れを行った。この時に一部の武将からは助命の意向があったという(『秀吉事記』)。
この中には利家が含まれていたと推測されている(岩沢愿彦氏)。

 

~評価~

 

●岩沢愿彦氏は、賤ヶ岳の戦いにおける前田利家について、次のように述べている。(抜粋)

前田氏の出兵も外交的・同盟的関係に基づくものにほかならない。柴田・羽柴の抗争は、織田家臣団内部における主導権の争奪なのであるから前田氏の基礎を根底から覆すものではない。ここに基本的に中立的な立場が指摘されよう。二者択一的に柴田氏と同盟する必然性はないわけである。おそらく利家も助命派の武将であったに相違ない。
山城宝寺城で秀吉に和平を説き、その成功を信じて帰国したように、勝家に対する秀吉の真意を洞察することができず、なおかつ一縷の望みを託していたのではあるまいか。秀吉の真意を洞察することなく、安易な和平感の中に自己の中立的・傍観的立場を糊塗しようとした心理的傾斜があったことは推測してもよい。
それは利家のみならず、当事者を除く両軍武将の一般的な立場であった。
要するに利家の態度は、賤ヶ岳戦そのものの本質に政治的に正当に対応したものと言うべきであって、この政治的敏感さを持たない限り、家の存続を保証されないのが当時の実情であった。

(『人物叢書 前田利家』)

 

●高柳光寿氏は次のとおり述べている。

私は決して利家の行動を責めようとは思わない。それは生きるための道であったからであり、当時はどこでも行われたことであったからである。
(『戰國戰記 賤ヶ岳之戰』)

 

●桑田忠親氏は次のように記している

賤ヶ岳の戦いほど前田利家にとって苦境に立たされた事態はなかったであろう。もともと利家は秀吉とも勝家とも親しい。勝家は常にすぐれた理解者であり、良き相談相手だったのである。秀吉となると、それ以上の血縁的なつながり
(『日本武将列伝』)。

 

●戸部新十郎氏は次のとおり述べている。

勝ち負けの両方の主将がきびすを接して現れるというのは、これは利家でなくてはできないのです。非常に信頼度があったということが、まず第一番に基本だと思います。
(『前田利家と能登・七尾』)。

 

佐久間盛政は、大岩山砦を陥落させ、その余波で岩崎山砦を落とす快進撃を見せた。

この頃、前田利家は、権現坂砦を経て、茂山砦に陣している。

これは、陣中のかなり深い所まで及んだものであり、佐久間隊の情況によっては、敵陣への攻撃すら予定されたものであろう。

しかし佐久間隊が敗退するに際し、自陣を捨て、さらに、佐久間隊と合流して権現坂砦で秀吉への迎撃をする事などなく、戦線を離脱している。

このような行動は、「裏切ったとしか思えない」(高柳光寿氏)。

ともかく、賤ヶ岳での前田利家は、まさしく”日和見”だったと評していいのだと思う。

 

事前に秀吉との通謀はあったかも知れないが、退却時の被害や府中城の緊張した情況を見れば、基本的には利家は中立的な態度を堅持したのであろう。

佐久間盛政が敗れたので、秀吉の誘いのとおり、利家は寝返ったのである。佐久間が健在であれば、そのまま秀吉方の砦を攻めたのであろう。

このような態度は、高柳光寿氏も岩沢愿彦氏も記すとおり、責められるべき選択ではない。至当であろう。

しかし、重要なのは、彼の退却が賤ヶ岳の合戦の帰趨を決定づけたこと、すなわち、信長の後継を実質的に確定させたことである。
前田利家が、本人の意図でなくとも、歴史を決めてしまったのである。

 

ここが”戦国時代で最も運の良かった武将”と称せられる(岩沢愿彦氏)、その理由だろう。

 

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