戸石城の戦い
戸石崩れ

 

戸石城の戦い(砥石城の戦い)は、天文十九年(1550)九月、現在の長野県上田市に屹立する戸石城(砥石城)で行われた武田晴信と村上義清の戦い。武田信玄(晴信)30歳の時の合戦。


(国土地理院発行の
2万5千分1地形図  


(長野県教育委員会編『長野県の中世城館跡-分布調査報告書-』掲載の概念図

 

同年七月、甲斐守護職の小笠原長時を林城から追うと、次の武田晴信の標的は、葛尾城の村上義清となった。

小笠原長時は村上氏のもとに逃れ、それを追撃した武田氏は、小県に出陣した。

天文十九年(1550)七月二日、武田晴信は、真田幸隆に文書を与え(『真田文書』)、

   
其の方年来の忠信、祝着に候
   然らば本意の上に於いて
   諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条
   都合千貫の所これを進し候

     恐々謹言
      天文十九庚戌
      七月二日 晴信
              真田弾正忠殿

つまり、「私の本意になったうえは、諏訪形(長野県上田市)の300貫と横田遺跡上条の合計1,000貫をあてがう」
と言っているが、この”本意”とは戸石落城の事だとされる。

「横田遺跡上条」

上の書状で晴信が真田に与えると豪語している「横田遺跡上条」というのは、その場所がよく分からない。

「諏訪形」と同じく、真田郷にそう遠くない場所なのは間違いないと思われるが、管見の限り、明確になっていない。

 

一説では、「横田高松の遺跡・上条」と読んでいる。

『妙法寺記』によれば、横田備中が歿するのはこの後の戸石崩れでである。
上条という地を横田氏が領していたのかも明瞭ではない。

しかし、なるほど、「横田高松の遺領である上条」と読むのは素直だと思う。

場所的には、推測では、「中之条」「下之条」という地名のある上田原の辺りであろうか。

いずれにせよ、この問題は、薄学ゆえ解しにくいが、一考の価値はあるのかも知れない。

 

この戦いを知るのに最も優れた『高白斎記』の記述をみていく。

 

・8月19日「辰刻御立ち、戌亥の刻 長窪へ御着陣。」

8月24日「砥石の城見積もりに今井藤左ヱ門、安田式部少輔同心申す。辰刻に出て酉の刻に帰る」

(両氏は午前八時に長窪を出て、戸石城の備えなどを偵察・検分して午後六時に帰陣した。)

8月25日「砥石の城見積もりに又、大井上野助、横田備中守、原美濃守指し越さる。長窪の陣中の上、辰巳の方に黒雲の中に赤雲立つ。西の雲先なびく気にて。」

(再度、重臣が内偵に走っている。晴信の慎重な作戦が垣間見える。)

8月27日「戌子辰刻、長窪を御立ち。未刻、海野口向の原へ御着陣。鹿一陣の中をとおる。」

(「向の原」の場所は不明。陣を鹿一頭が通っているが、不吉に感じられたのであろう。)

8月28日「砥石の城際、屋降地号に御陣すえらる。」

(「屋降」という所に陣したというが場所不明。)

8月29日「庚刁午刻、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。酉刻、西の方に赤黄の雲、五尺ばかり立ちて紅ひの如くにして消える。」

(昼頃、晴信自身で戸石城の偵察に行っている。矢入れは開戦を宣言するもの。不吉な天候の記載が続く。)

 

・9月1日「辛卯。申刻、清野出仕。」

清野氏は、海津に館を構えた国人。当主は清野清寿軒だった。当時は村上氏に属していたが、この日裏切った。)

・9月3日「砥石の城ぎわへ御陣寄せらる。」

(戸石城の近くまで本隊を寄せた。)

・9月9日「己亥、西刻より砥石の城を攻をる。敵味方の陣所へ霧ふりかかる。未の刻晴る。」

(晴信の戦略は慎重だったらしく、前月29日の開戦からこの時まで本格的な攻撃はしなかったものとみえる。)

・9月19日「□須田新左衛門誓句。」

(□は欠字。村上方の須田信頼が武田氏に寝返った。)

・9月20日、「十月節。」

・9月23日「葵丑刁刻、清野方より注進。高梨・坂木和談半途に於て対面、昨日、寺尾の城へ取りかけらるるの間、真田方は助けとして越られ候。勝沼衆虎口を一騎合同同心終始存じ候。」

(武田氏の攻撃にもかかわらず落城せず、そのうち葛尾城の村上義清と対立していた高梨政頼が和睦し、武田方の寺尾城を攻めてきたと清野氏が知らせてきたので、真田幸隆がその援軍に向かい、武田一族・勝沼信元を増軍して対処した。)

・9月28日「雨宮と坂木は退出仕るの由注進。」

雨宮氏と村上氏が寺尾城攻めから撤退した。)

・9月29日「真田弾正帰陣。」

・9月晦日「御馬納めらる可く之御談合。」

(晴信は諸将と協議して帰陣する決定を下す。)

 

・10月1日「小辛酉、卯刻、御馬入れらる。御跡衆 終日戦う。酉刻 敵敗北。其夜 望月の古地御陣所。終夜雨。」

(午前六時、武田軍の撤退開始。御跡衆(しんがり軍)は激戦に見舞われ、午後六時までの十二時間、村上軍が追撃を止めるまで戦いは行われた。)

・10月2日「峠を越えて諏訪へ御馬納めらる。」

(「峠」は大門峠とされている。)

 

 

『妙法寺記』『勝山記』(甲斐の富士山麓の僧侶の日記)の記述

「九月一日、信州戸石の要害を御退く候とて、横田備中守をはじめとし、随分衆千人討ち死になされ候。されとも御大将はよく引きめされ候。此のあたりでは小沢式部、渡辺雲州討死。道具は国中みな捨て候。歎き言語道断限りない。されとも信州の取り合いは止まず。」(十月一日の誤記とされる)

醍醐寺理性院の厳助(『厳助往年記』)の記述

「十月朔日、信州村上領知分、佐久郡に於いて、甲州衆五千計討死 云々」

伊那文永寺(長野県飯田市南原)にて聞き及んでいることが判る。

このあたり、武田軍の敗退が広く伝えられている事実がみえる。しかし、逆に、信玄の敗戦が少なかったことの証左とも言えよう。
ただ、口伝とは恐ろしいもので、討死の数が、富士山麓では1,000名、飯田では5,000名になっている。前者が史実に近いだろう。

『甲陽軍鑑』の記述

「先手の侍大将・甘利備前守討死する。旗本より検使の横田備中も討死也。横田備中の子・十郎兵衛は、その歳二十で、朝の競り合いで村上方のおぼえの足軽大将・小島五郎左衛門を組み討ち取ったが、深手を負って退いた。横田備中の同心ども、この競り合いで、二十人余りが手負い討死した。横田備中かへして討死の時、一入早討たれぬ。」

とし、
「戸石くずれとて、この合戦は信玄公大形負け給う」
と記している。

同書では、この他にも合戦の内容を詳述し、山本勘助の活躍により武田軍の勝利に帰したごとく作っている。

『甲陽軍鑑』は、戸石城合戦を天文十三年(別の箇所では十五年)と誤っており、また山本勘助の活躍が目立って記されている。甘利備前守もすでに上田原合戦で戦没している。

山本勘助に関する記述は詳細だが、まったく信頼することはできない。

上野晴朗氏は、戸石合戦の誤謬について、
「『軍鑑』のような記録では、まだ生きた証人が居た時代であるから、無碍な記録は成り立たないし、第一に生きた証人達やその関係者が承服するはずもないので、この記録はそういう面でも、勘助の行動を知る上で大変に貴重なものである」(『山本勘助』)
とされているが、賛同できない。

しかし、山本勘助の登場しない箇所、上に引用した横田備中のくだりなどは、横田が検使だった事、退却の時に討死したように読める事など、他の史料と整合している点もあり、一概に『甲陽軍鑑』のすべてを棄てるのにも躊躇する。

もともと確かな史料があったが、後年に加筆され、誤りの部分が多くなったように感じる。とはいえ、その採用は慎重であるべきことに変わりはない。

 

戸石合戦の評価

磯貝正義氏は、
「大敗といっても、それは城攻めの失敗によって蒙ったというよりも、むしろ退却の際の殿軍の損害によったものであったらしい。この戦いの史的意義は、上田原や塩尻峠の合戦等に比べればはるかに小さかったといってよいだろう」(『
定本 武田信玄』)
と評価されている

武田氏の損害がどれほどだったのかは明確ではないが、横田備中の討死など少なくはないと思われる。それはともかく、磯貝氏の評価は通説的に採用できると思う。

 

戸石城の陥落

戸石城に籠城していた武将は不明である。
『甲陽軍鑑』は、綿内、井上須田牧之島楽巌寺雅方、布下仁兵衛らがいたとし、『村上家伝』は矢沢綱頼(真田幸隆の弟)らがいたというが、確証はない。

坂本徳一氏は、「(晴信は)戸石城内に村上義清がいると信じ込んでいたのではないか」(『武田信玄合戦記』)としているが、証明する術はない。

 

この戸石城だが、結局、

翌年5月26日、「砥石の城真田乗取る。」(『高白斎記』)

となり、真田幸隆が落城させ、幕を閉じている。

これは、一般に、”地元の情報や侍に通じていた真田氏が謀略によって落としたものだ”といわれる。
現代人には、「城を乗っ取る」という表現と真田幸隆という知将が合わさって、力攻めではなく、何らかの調略により、無血で陥落させたと直感的に思ってしまう。

しかし、武田晴信は蒲原城を落とした際、永禄十二年(1569)十二月六日付『真田幸隆・真田信綱宛文書』で、「城主をはじめとして敵を残らず討ち取り、城を乗っ取った」と宣伝している(『信濃史料』13巻)。

つまり、「乗取る」とは、必ずしも知的に落城させたとは限らず、真田氏が槍で攻め落としたのかも知れないのであり、『高白斎記』の簡素な記述だけでは、史実は分からないのである。

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