塩尻峠の戦い
天文十七年(1548)七月十九日に発生した武田晴信と小笠原長時の戦い。 天文十六年(1547)佐久の小田井の合戦で志賀城を落城させた武田晴信だが、葛尾城主・村上義清の前に敗れる(上田原の戦い)。 これを好機として、小笠原氏は武田領の諏訪へ侵攻した。
四月十五日 六月十日 七月十日 七月十一日 これ以降、武田軍の進行が遅かったため、諏訪大社上社の五官のひとりである副祝(そえのほうり)は武田軍を見限った(『守矢文書』)。 七月十五日 七月十八日 ここからの動きは俊敏で、一気に、諏訪上原城へ入った後、休む間もなく塩尻峠に向かって転進した(『高白斎記』)。 武田軍の到着を知った守矢頼真は、上原城から屋敷に戻り、終夜勝戦を祈祷した(『守矢文書』)。 七月十九日早朝六時ごろ、小笠原軍を急襲し、一千余人を討ち取った(『神使御頭之日記』)。
武田軍の進軍が深夜であったため、その動きを察知できなかった小笠原軍は、その多数が討ち取られ(『高白斎記』)、一説には、五千の小笠原軍をことごとく打ち殺した(『妙法寺記』)。 小笠原勢は、早朝のまさかと思っているところを強襲され、武具など着けている者は一人もなく、半分ていどの兵たちが刀で反撃しただけという状況だったという(『守矢信実訴状』)。
二級史料による戦いの様子 当初、小笠原勢が上原城を包囲した際、小笠原側に仁科氏が和睦を進言したが長時が聞き容れなかったために仁科氏は腹を立てて撤兵したという(『小笠原系図』)。 また、晴信は、塩尻峠での決戦に先立って、小笠原側の山家・三村の両氏に対して誓紙を出して、小笠原滅亡後はその旧領を保障するとの計略を行っていたという。 『溝口家記』は、裏切り者に西牧四郎左衛門、三村駿河守の名をあげている。 合戦では晴信自身も二箇所の疵を負ったが、その者を小田切平次左衛門が討ち取り、彼に感状が下されたという(『甲陽軍鑑』)。 また、小笠原氏を救援するために、伊那衆が天竜川方面から進出し、板垣信形を破ったという話しもあるが(『二木家記』『小平物語』)、板垣はすでに上田原の合戦で討死している。 小笠原側の二木氏は、退却の際、本道が敵で塞がれてたので山中を逃れたという(『二木家記』)。
これら後年の史料は信用できない。 しかし、武田軍が何らかの謀略を行い、敵の内応・分裂を図ったというのは史実とされている(磯貝正義氏、柴辻俊六氏) 武田晴信の感状では小笠原氏の大将が討死した様子が無いので、大した激戦もないまま、強襲された小笠原勢がいち早く敗走してしまったと推察されている(前同)。
七月二十五日、晴信は上原城に帰陣し(『高白斎記』)、しばらく上原城に滞在した後、八月一日には長坂虎房を上原城代として定め、八月十日には諏訪社に太刀一腰を奉納し(『矢守文書』)、八月十一日には名刀・景光を諏訪上社に納め(『高白斎記』)、九月六日には佐久郡前山に出陣するといった有り様であった(『高白斎記』)。 ともかく、武田軍は、小笠原氏を抑えることで、仇敵である村上氏に集中することが可能となり、信濃経略の足がかりを復活することができたのである。
(現在の勝弦峠) なお、塩尻峠合戦は、正しくは勝弦峠(かっつるとうげ)で行われたという説がある(小和田哲男『戦国合戦事典』、坂本徳一『武田信玄合戦記』)。 その根拠として、『神使御頭之日記』には「小笠原殿於勝筆一戦候」と記されており、「勝筆」とは「勝鶴」の誤記で、当時は「勝鶴峠」と書かれたというのである(佐藤八郎氏)。 いずれにせよ、塩尻峠~勝弦峠という広範囲の山岳地帯で戦いがあったのは間違いなく、通説どおり、塩尻峠で敗れた小笠原軍は勝弦峠から松本に逃げ込んだが、そこでも武田軍の猛烈な追撃にあったというのは史実であろう。
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