金山城

標高240m、比高190m。

金山城(かなやま・群馬県太田市金山)は、足利山地の西南部が渡良瀬川によって切り離された地塊の南端に築かれた難攻不落の大城郭である(『日本城郭大系』)。周辺には多くの出城(北城、坂中城西城、見附出城、八王子砦など)が配された。

文明元年(1469)、岩松(新田)家純の築城、長楽寺の僧・松陰西堂の縄張りとされる(『松陰私語』『上野国誌』『関八州古戦録』)。

文明十年(1478)七月、太田道灌が訪城。三日間滞在し、松陰西堂と兵書などについて雑談、城を見学し、「天下の名城」と讃えたという(『松陰私語』『金山軍記』)。

その後、実質的な城主となった横瀬(由良)氏の時代に全盛を迎え、上杉氏、武田氏、後北条氏、佐竹氏など戦国の雄に取り囲まれ、戦乱に見舞われた(『現地説明板』)。

永禄六年(1563)に武田信玄、翌七年(1564)は上杉謙信が攻めたが落ちなかった。

しかし、天正十二(1584)、北条氏政の謀略で小田原城に誘い出され捕らわれの身となった城主・由良国繁と弟・長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、後北条氏の家臣が城番として配置された(『日本の名城・古城事典』『現地説明板』)。

天正十八年(1590)後北条氏の滅亡とともに廃城。江戸時代には金山「館林」として徳川幕府直轄地となり、良好な城跡遺構を遺す結果となったという(『現地説明板』)。

関東の名城に選ばれる山城で、相当の規模をもっている。また惣石垣の中世城郭として大変貴重である。しかも、随所に中世の山城らしい遺構も混ざっており、見所は豊富である。また、非常に整備も行き届いており観光地としても多くの人を呼んでいるようだ。
ただ、復元が完璧にやられ過ぎており、どこまで遺構なのか復元なのか判然とせず、味気ない印象をもったのは率直なところ。また、本丸〜三の丸は、神社などの建物が乱立し、遺構が失われている点はとても残念だ。

城址へは、山頂近くまで車道は走っており、駐車場も完備され、訪問は容易だった。

(参考サイト:余湖くんのホームページ 埋もれた古城


  (跡地の航空写真)

 
(国土地理院発行の2万5千分1地形図


(現地概念図)

 

(【左写真】本丸跡、新田神社などがあり、郭の遺構は失われている。)
(【右写真】本丸北側にある石垣。当時そのままのものだろう。)

 

(【左写真】本丸北側の「裏馬場」。馬場というよりは腰曲輪だ。)
(【右写真】「二の丸」跡。未整備だが竹林になっている。矢竹の子孫だろう。)

 

(【左写真】本丸北、搦め手に続く段郭。【右写真】搦め手の北裏掘切。この辺は中世山城の様相たっぷり。)

 

(【左写真】搦め手道を補強する石垣。遺構なのかも知れない。)
(【右写真】本丸南の「御台所曲輪」。広いが、改変され遺構は無い。)

 

(【左写真】「日ノ池」。周囲から水が流れ込む設計になっている。【右写真】「南曲輪」。休憩所がある。)

 

(【左写真】「南曲輪」下の大手虎口を守る曲輪。【右写真】同じ曲輪で出土した釜戸跡の復元。)

 

(【左写真】この曲輪には井戸もあり、武士の生活感が漂うという。)
(【右写真】大手虎口を直進したT字の場所。二手に分岐し、右に曲がった奥が「南曲輪」。)

 

(【左写真】大手虎口から「南曲輪」を見上げる。その下が釜戸・井戸のあった曲輪。)
(【右写真】大手虎口脇の小郭。虎口を守る重要な場所で、安土城の「伝・羽柴秀吉屋敷」のような存在。)

 

(【左写真】大手虎口を守る段郭。いずれも石垣が復元。【右写真】段郭の用水路。この流れが「月ノ池」に繋がる。)

 

(【左写真】大手虎口。枡形や折れが無く、ほぼ直線。中世城郭とは思えない造りだ。)
(【右写真】「月ノ池」と「馬場」。その手前に大堀切がある。この辺は中世の感じ。)

 

(【左写真】「月の池」から大手虎口を見る。【右写真】「馬場」の斜面。段郭があったのか石垣が復元されている。)

 

(【左写真】「馬場」。この山頂に多数の馬が常備されていたかは疑問だが。【右写真】「馬場」下の曲輪。)

 

(【左写真】「馬場」の先には一段高い「物見台」がある。【右写真】「物見台」の手前の礎石。かなり大きい石だ。)

 

(【左写真】「馬場」下の虎口曲輪。帯郭であり通路になっている。【右写真】そこにも礎石が2棟分ある。)

 

(【左写真】虎口曲輪。本当にこのような石垣だったのか?【右写真】堀切も配し、そこに降りて行く階段もある。)

 

(【左写真】木橋で復元された虎口。【右写真】虎口の石垣。)

 

(【左写真】大堀切。岩盤を削ってあり、これを石垣に用いたのか。【右写真】「西矢倉台」の曲輪。)

 

(【左写真】「西矢倉台」の石垣。これなどは当時のままか。【右写真】その先にも大堀切がある。)

 

(【左写真】堀切は二条あり、その外側の堀切。道としても利用されたという。)
(【右写真】堀切には土塁が併設されていて堅固だ。)

 

(【左写真】中央に帯状の削平地があるが、戦国時代の通路だという。【右写真】城址石碑。)

 

(【左写真】ここが大手道だという。しかし、城の規模に比べ、大手の登山道が脆弱すぎる気がする。)
(【右写真】その下の大手道にある石垣。『埋もれた古城』殿によれば、これは遺構ではないという。)

(城址遠望)


詳しい地図で見る
 

戻る

http://srtutsu.ninja-x.jp/index.html

inserted by FC2 system