今城

高野城、高野要害とも。

今城(いまんじょ・茨城県守谷市けやき台3丁目うららか公園)は、利根川の低地帯に突き出た台地上にあった。

今城とは、今造られた城(新しい城)という意味で、城の正しい名前ではないと思われるが、昔から「いまんじょ」と呼ばれている。城の様式が極めて単純・素朴にできているので、戦国時代より以前に築かれた城ではないかと推測される。そして、一定領主のための城ではなく、戦時用の城砦と見られている(守谷市教育委員会『現地説明文』)。

興国元年(1340)国内が南北朝に分れて激しく争われていた頃、守谷にいた相馬忠重が、南朝の味方をして城を築いて北畠顕国を迎えたという記録があるので、その時の城がこの今城ではないかと考えられる。顕国はその後北朝軍に攻められ敗退。この城は、南朝の北畠親房が、最後に拠った大宝城や関城と構造が良く類似して、自然を利用した簡単な土塁を造った程度の城である。いずれにしても、当時守谷の祖先達は、南朝側に味方して、錦の御旗を立てて気勢を挙げ、日本の歴史の流れに大きな役割を果たした由緒深い城である(守谷市教育委員会『現地説明文』)。

城跡は、現在”うららか公園”になっている。しかし、公園には似つかわしくない起伏のある地形で、明らかに城の段郭の跡である。3つほどの郭があり、はっきりした土塁も残っている。かなり古い構造の城砦らしいが、比較的良く残っている。

参考サイト(余湖くんのホームページ美浦村お散歩団たぶん取手ブログ

 

 

(【左写真】最上部の主郭。なかなかの広さを誇る。【右写真】主郭東側に残る土塁痕。)

 

(【左写真】土塁の上の様子。【右写真】土塁の外側。通路の様になっており、虎口があったのだろう。)

 

(【左写真】主郭の下から見上げる。この辺が大手かも知れない。【右写真】一段低い二の郭。)

 

(【左写真】さらに下に郭の跡が残っている。【右写真】城址遠望。)

2010年1月9日訪問)

 

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