名護屋城

肥前名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)は、玄界灘を望む東松浦半島の最端部に位置する。

天正十九年(1591)十月、豊臣秀吉が文禄・慶長の役の拠点とするために築城を開始。築城は黒田長政・加藤清正らが中心となり、西国大名の割普請で行われた。築城開始からわずか半年後、秀吉が入城する翌年の四月頃にはその大半が完成。その後も普請や作事が続いたと考えられている

城は天守台を中心に左回りの渦郭式の城郭で、本丸・二ノ丸・三ノ丸・遊撃丸・水手曲輪・東出丸・弾正丸・台所丸、そして秀吉の私的空間である山里丸などの曲輪群からなる。
城の周辺には城下町が広がり、丘陵には諸大名の陣屋が点在する状況であった。

慶長三年(1598)秀吉が他界すると、朝鮮半島に渡っていた軍勢も帰国し、名護屋城もその役割を終える。その後、城全体が破却されてしまうが、その時期については、一国一城令や天草・島原の乱後などの諸説がある(学研『図説・日本名城集』)

 

説明不要の豊臣秀吉の儚き野望の城跡である。やはり素晴らしい城跡だった。遺構の保存状態も良好で、説明板も充実していた。しかも現在も発掘調査中なので、今後も楽しみである。

 

 

 

(【左写真】本丸内部(現在も整備・調査が熱心に続く…)【右写真】本丸南西隅石垣(崩れた石垣の中から江戸時代の銭が出土され、破壊時期が推定。)

 

(【左写真】本丸多聞櫓跡(全長約55m、幅約8mの長大な建物があった。)
(【右写真】本丸大手(三ノ丸と本丸を結ぶ通路。名護屋城は二ノ丸から本丸への直接的な通路がないのが謎とか…。)

 

(【左写真】遊撃丸(明国の講和使節をもてなした曲輪。一部では金箔瓦が出土。)【右写真】搦手口(通路を屈折させた喰違虎口が見られる)

 

(【左写真】二ノ丸合坂(西側の防御。人為的に徹底的に破壊された。)
(【右写真】二ノ丸長屋建物跡(簡素な構造から、築城時の仮説的な建物であった可能性が指摘。)

 

(【左写真】二ノ丸からの天守台跡(五層七階建の豪壮な建物があった。唐津藩領有に伴い石垣までも破却された。)
(【右写真】天守跡から(手前)が二ノ丸で、奥には各大名の陣所が続いた。)

 

(【左写真】天守跡から玄海灘を望む。【右写真】東出丸(大手口・三の丸の警固のための侍詰所があった。)

 

(【左写真】弾正丸から馬場(本丸南側)の石垣を眺める。)
(【右写真】水手曲輪(本丸等の雨水をこの曲輪に集めて貯めたと伝わり、水に関する施設があった。)

 

(【左写真】馬場。三ノ丸(手前)から二ノ丸(奥)に至る。右側の築城時の高石垣が良好に残る。【右写真】馬場櫓台。)

 

(【左写真】三の丸(東西68m、南北124mの曲輪。肥前名護屋城図屏風には殿舎や公家風の人物が描かれていた。)
(【右写真】三ノ丸南東隅櫓台(新旧二つの石段があり、途中で改造された。)

 

(【左写真】三ノ丸櫓台(城内で最大規模の櫓台。ここも三期に渡る改造が見られる。)【右写真】大手口。)

 

(【左写真】山里丸(秀吉が在陣中に居住していた。)【右写真】山里丸北の門跡。)

2010年1月18日訪問)

 

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