山崎城

鹿沢城、鹿澤城、宍佐和城、宍粟城、宍澤御陣屋とも。

山崎城(兵庫県宍粟市山崎町鹿沢)今から370余年前(元和元年六月)徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡三万八千石をもらって山崎の地に城を築いた城郭。

寛永八年(1631)、赤穂城主であった弟の政網の死去により佐用郡と赤穂郡の内から三万石を加えられて六万八千石となった。同十五(1638)年、御家騒動により、同十七年、領地没収となり、代わって岸和田城より松平周防守康映が城主となり宍粟郡、作用郡の内五万石を賜わった。この城は宍粟、作用を相和した城であることから、城の名を「宍佐和城」と名づけた。
周防守は城地を整え城下の繁栄をはかったが、在城十二年余りで慶安二年(
1649)、島根県浜田に移る。

その後には、岡山県から池田光政の弟、松平備後守が城主となり宍粟郡の三万石を賜わった。寛文十一年(1671)、恒元が死去し、その子豊前守政周が後を継いだが、延宝五年(1677)政周がなくなり養子の数馬が後を継ぐ。同六年幼君数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、同七年、本多肥後守忠英が一万石の城主となった。前藩主、松平数馬の城地に館を造り、それ以来ここを「宍澤御陣屋」と呼んだ。
その後、藩主九代が継続し明治維新となり、明治五年(
1872)学生頌布によって、この地の”山崎藩邸”がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至たる(『城址案内板』)。

周辺は学校や図書館などとなっていて遺構は移築門と空堀跡のみだった。

 

 

 

【左写真】本丸(御殿)跡(現在は歴史民俗資料館が建つ)【右写真】紙屋門(現存移築・左右の土塀と石垣も当時のもの)

 

【左写真】表御門跡(通称大門・奥が武者屯(二ノ丸)で現在は山崎小学校)【右写真】堀跡(右側が紙屋門)

 (2010年3月31日訪問)

 

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