利神城

雲突城とも。標高373m 比高240m。

利神城(りかん・兵庫県佐用郡佐用町平福)は、赤松一族から最北端の防備の任を受けた、加西郡別所の構えにあった別所肥前守教範が、貞和五年(1349)佐用郡に入り、比良橋利神山に砦を築き、口長谷に館を構えて移り住んだことに始まる。

別所肥前守光則の代に嘉吉の乱が起こり、一時敗退したが、応仁の乱に際し、別所静治は風雲に乗じ、都の赤松政則を助け赤松家再興を図った功績により、旧領利神城主に復帰することができた。

天正六年(1578)一月二日上月城にあった山中鹿之助は、突如、利神城を攻めたが、時の城主・別所日向守林治は城を出て瓶砦の地にこれを迎え討ったが叶うべくもなく、家老磯部主計ら数名が敵中に切り込む間に城主は落ち延び、ここに赤松家は滅んだのである。
慶長五年(
1600)関ヶ原の功により、池田三佐衛門輝政は姫路城に入る。甥の家老池田由之に、作用郡二万三千三百石を与え統治を一任した。由之は利神山山頂の砦を打ち壊し、五ヶ年の歳月をかけ、他の助成のないまま独力で巨大な城郭群と麓に常助殿と呼ばれる居館と武家屋敷を構えた。
口伝によると慶長十年由之の要請により、輝政は落成なった利神城見分のため駒を進め、釜役坂頂上にさしかかるや、北方遥かに雲を凌いでそびえ立つ巨大な城郭群に驚き、駒を返し使者を送り即刻破却を厳命したという。

今に残る利神城の絵姿や、山頂の石垣群を見て、往時の雄大さを偲ぶのみである(『城址案内板』)。

ここは古びた石垣が残っていて素晴らしかった。厳しい登山といい、出石の有子山城を想起させられる城跡。ただ本丸周辺の石垣がかなり崩落し始めていたのが残念

参考サイト(余湖くんのホームページ北の城塞 −秋田の中世を訪ねるー

 

  

【左写真】本丸跡 【右写真】本丸石垣(二ノ丸から)

 

【左写真】本丸枡形虎口 【右写真】三ノ丸から本丸を眺める。)

 

【左写真】本丸から三の丸と麓の平福陣屋を眺める。【右写真】二ノ丸石垣)

 

【左写真】二ノ丸から鴉丸の石垣群を眺める。【右写真】堀切跡)

 

【左写真】崩落が進んだ石垣群…。【右写真】城址遠景)

 (2010年3月31日訪問)

 

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