佐用城

佐用(福原)城(兵庫県佐用郡佐用町佐用)中世に築かれた代表的な「平山城」。

南面に川、背後に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。

元弘三年(1331428日、淀の久我畷の戦いにおいて、鎌倉方の総大将・名越尾張守高家をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原家がこの城を継いだので、福原城とも言われている。

戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正五年(157711月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。

後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く崇敬されている(『城址案内板』)。

遺構は本丸周囲の土塁と堀跡のみだった。

 

 

(【左写真】本丸跡(畑となっており、土塁が囲う)【右写真】本丸に鎮座する福原霊社(福原則尚を祀る)

本丸背後の堀跡らしき地形)

 (2010年3月31日訪問)

 

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