上月城
上月城(こうづき・兵庫県佐用郡上月町上月)は、鎌倉時代末期(一三〇〇年代)に上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が、太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。 上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいずれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月城跡で、中世山城の状態をよく残している。 〜上月城の歴史〜 赤松氏は播磨・備前・美作三ヶ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰返すこととなる。 天正五年(1577)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に写した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一万五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺と磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。 秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿介に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多勢は之を上月十郎景貞に守らせたが、再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中、櫛田の山中で自刃したと伝えられる。 この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(1825)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義章が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている(『城址案内板』)。
尼子勝久や山中鹿介に思いを馳せて登城した。あまりにも有名な城跡であるが、残念ながら比例する規模ではなく、確認できた遺構は堀切や曲輪ぐらい。 |
(【左写真】主郭に残る赤松氏供養塔 【右写真】堀切跡 )
(【左写真】登城口付近に建つ尼子勝久の慰霊碑 【右写真】城跡遠望 )
(2010年3月31日訪問)