姫路城

姫路城(兵庫県姫路市本町)

正平元年(1346)赤松氏が築城したのが起源という。応仁の乱の際に赤松政則は姫路城を陥落させ、領国を回復。本丸、鶴見丸を築く。その後、一族の小寺氏、その重臣の黒田氏が城をあずかり、天文十四年(1545)黒田孝高が城主になった。

天正八年(1580)羽柴秀吉の中国攻めの際に孝高はその配下に入る。羽柴秀吉の中国攻略のため、城を秀吉に献上。秀吉は三層の天守閣を築き翌年完成。孝高は姫路の重要性を説き、本能寺中国大返しの時も大いに活用させたという。
天正十三年(1585)
木下家定が姫路城主となり16年間治め、関ヶ原の合戦後、慶長五年(1600)池田輝政が入城。翌年から大改修を開始し、9年後に完成、現存する壮大無比な城郭を築く事となる。
元和三年(1617)それまでの城主・
池田光政は鳥取城へ移ったため、本多忠政は姫路城主に着任し、三の丸、西の丸、そのほかを増築した。

姫路城は、法隆寺とともに1993年12月、日本で初めてユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録され、日本に現存する城の中でも世界的に高い評価を受けている。連立式天守をはじめとする独特の建築構造と白鷺城とも呼ばれる美しい形容、要塞として精巧な意匠と工夫の凝らされた巧みな機能、そして城全体がよく保存され、内曲輪の城郭建築がほぼ完全に当時の様式を伝える(『姫路市資料』)。

『姫路城現地案内板』

播磨の守護職赤松則村が元弘三年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が守っていました。最近の研究では築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆のときとする説もあります。黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正八年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、翌九年3層の天守閣を完成させました。その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封し、慶長六年(1601)から8年の歳月を費やして南の外濠を現在のJR山陽本線附近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築きました。池田氏3代のあと入封した本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和四年(1618)今日に見る姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が寛延二年(1749)入封して明治維新を迎えました。現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上「国宝」)をはじめ、化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000m(以上「重要文化財」)の建造物と、内濠・中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に指定されています

当日201041日は、平成の大改修工事直前+桜開花とあいまって、観光客で芋洗い状態だった。ただ、やはり世界遺産に相応しい名城である。

 

(天守を大手門から眺める)

 

(【左写真】天守遠景(改修工事で暫く眺められなくなる…)【右写真】天守脇の油壁(粘土に豆砂利を混ぜたもので、秀吉時代の名残)

  

【姥が石伝説】

羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていた時のこと、城の石垣の石がなかなか集まらず苦労しているという話が広まっていた。城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼を差し出した。これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使用。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれている。(中央の半円形の白い石)

 

(【左写真】本丸直前の二ノ丸「に」の門。【右写真】二ノ丸「ぬ」の門(右側が渡櫓)

  

(【左写真】二ノ丸「は」の門(観光客の渋滞が…城の防御性を立証)【右写真】二ノ丸「り」の門(改修のクレーンが背後に…)

  

(【左写真】菱の門(三の丸から二ノ丸へ通じる最初の関門)【右写真】扇の勾配を見せる本丸高石垣。)

  

(【左写真】三国濠(二ノ丸)【右写真】西の丸百間廊下内部。)

  

(【左写真】西の丸の渡櫓。【右写真】西の丸南東の「カ」の櫓。)

  

(【左写真】お菊井戸。【右写真】大手門。)

  

(【左写真】内堀(大手門より)【右写真】池田輝政

2010年4月1日訪問)

 

戻る

くんまるブログ   http://srtutsu.ninja-x.jp/

inserted by FC2 system