久留米城

久留米城(福岡県久留米市篠山町)は、永正年間(1504-21)に筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城が、久留米城の始まりとされる。

高良山勢力の出城であったらしく、天正十一年(1583)から3年間、高良山座主麟圭はこの城に籠り、豊後大友氏と戦っている。天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には毛利秀包が入城する。

関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、田中吉政が筑後一国の領主となり、筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男・則政が置かれた。元和七年(1621)、有馬豊氏が田中家の改易をうけて筑後北半21万石の大名として入城し、幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。

有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行い、本丸・二ノ丸・三ノ丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。二ノ丸以下の郭にあった町屋・寺社を城外に移転させ、それを守るような形で荘島・櫛原・京隈などの士屋敷を配置した城下町を作りあげている(『城址案内板』)。

城跡は篠山神社となっており本丸部分しか遺構は残っていない。しかしながら、本丸を囲む石垣群は見応えのあるものだった。

 

本丸復元図(天守は建てられなかった)

 

(【左写真】本丸跡(有馬豊氏らを祀る篠山神社となっている)【右写真】蜜柑丸跡(腰曲輪があり、蜜柑が植えられていた)

  

(【左写真】巽櫓跡(城内の七基の櫓の中で最大のもので、規模は六間×七間【右写真】冠木御門跡(内側が枡形)

  

(【左写真】高石垣【右写真】大井戸)

(水堀跡)

 (2010年6月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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