柳川城
柳川城(福岡県柳川市本城町)は、永禄年中(1558-69)蒲池鑑盛によって本格的な城として造られたもので天然の要害である。水の利を充分に生かした平城で、堀を廻らし、扉の開閉によって城内の水が増減出来るようになっていた。 蒲池鑑盛の子・鑑漣に至り、天正八年(1580)龍造寺による数ヶ月に及ぶ攻撃に耐え、柳川城攻略を挫折させた。翌年、龍造寺により佐賀に於いて謀殺され、その一族もすべて殺害され、応永以来の蒲池一族は滅亡した。 この後、岡崎城主・田中吉政が筑後一円三十二万石余の領主として入国し、柳川を居城とするに及び石垣を更に高くし、天守を築き、従来にも増して防備を厳重にした。戦国動乱の二度に及ぶ攻撃にも陥落しなかった本城は、ここにおいていよいよ天下の名城としての名声を高めた。当時人々が「柳川三年 肥後三月 肥前久留米は朝茶の子」と言ったのは柳川城の堅固さを如実に物語ったものといえよう。元和六年(1620)田中吉政の子・忠政に後継なく断絶したため、奥州棚倉一万石より十二万石の領主として立花宗茂が再度当地に入国した。 ここは有名なわりに遺構は僅か。本丸跡の柳城中学校に天守台と僅かな石垣が残るのみ。さっさと旧柳川藩主別邸にある御花史料館に足を運び立花宗茂愛用の武具などを見学した。 |
(【左写真】天守古写真【右写真】天守台跡)
(【左写真】本丸城址碑【右写真】本丸脇の水堀跡)
(【左写真】柳城中学校に僅かに残る石垣【右写真】水堀が街全体を巡っている)
(2010年6月3日訪問)