八女福島城

八女福島城(やめふくしま・福岡県八女市本町本町)

天正十五年(1587)豊臣秀吉による九州平定後の「九州国割り」により筑後国に五大名が配置され、上妻郡(八女)は筑紫広門が領主となり山下城に居城しましたが、福島に規模の小さい支城を築きました。これが福島城の始まりです。

慶長五年(1600)筑紫広門は関ヶ原の戦いで西軍(豊臣勢)に属したため除封され領地を失いました。慶長六年(1601)田中吉政は、関ヶ原の戦いと石田三成生け捕りの功を賞され、筑後一国の国主になり、柳川城を居城としました。吉政は入国早々、領内各地に散在していた必要な古城を残して、城郭の強化を行い一族・重臣を配置し防備体制を整えました。なかでも福島城は、三男田中康政の居城として筑紫広門が築いていた城を拡張構築したものです。新しく本丸・二ノ丸を築き、城内は内堀・中堀・外堀の三重の堀を巡らし、堀を深くして(堀幅十米〜十五米)築地を高く、矢倉(櫓)を建て防備を堅固にしました。福島城の大改修構築のとき、古墳の石材や石人石馬類が使われています。

元和六年(1620)領主田中家は跡目を継ぐ嫡子がなく断絶しました。筑後国は有馬・立花両大名で分割し、矢部川をもって境界とし領域を定めました。元和七年(1621)新領主有馬豊氏が入国し久留米城を居城にしましたが、「一国一城の令」もあり福島城は破却廃城されたのです。福島城は、僅か三十三年の短い期間に終わった城でした。

本丸跡地は東西約百十二米、南北約七十六米です。現在の八女公園中央から東側・中央公民館・市町村会館あたりです。二の丸跡地は市庁舎駐車場周辺。西の丸跡地は公園西側一帯といわれています。ここ八女公園の地形は、もとは盛り上がった台地でした。しかし、公園整備のために、明治・大正・昭和にわたって台地が削り取られ平地になったのです。内堀や中堀は埋められて消滅していますが、その一部分が排水溝として面影を残しています。外堀は、福島地域を流れていた灌漑・生活用水路をうまく利用して築造したと思われています(『城址案内板』)。

城跡は八女公園となっており遺構はほとんど無い。

 

  

(【左写真】八女公園内に櫓台のみが残る【右写真】内堀と思われる排水溝)

  (2010年6月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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