福岡城

福岡城(福岡県福岡市中央区城内)は、福岡藩初代藩主黒田長政が、慶長六年(1601)から7年の歳月をかけて築いた城の跡。

天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、周囲を堀で囲む構造です。47の櫓を築きましたが、そのうち多聞櫓、祈念櫓、伝潮見櫓は現在でも見ることができます。藩主ゆかりの地、備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市付近)にちなんで福岡城と名付けられましたが、別名舞鶴城とも呼ばれます(『城址案内板』)。

関ヶ原合戦の戦功で豊前中津藩12万石から筑前52万石へ加増された黒田親子は小早川氏から名島城を受けてそれに入城したが、海辺に片寄り過ぎ、52万石に見合う城下町の規模を考慮し、幕府の許可を得ると、博多湾に望む福岡の台地を選定した。
縄張りは黒田家
24騎のひとりである野口佐助。当時福崎といった地名は黒田氏の出身地である備前「福岡」に改名されたという。幕府への遠慮と如水の深謀遠慮から本丸の天守台上には天守閣は築かれることはなかったが、長政の督励と庶民の勤勉で壮大な城がわずか7年で完成した。加藤清正もこの城を見て、その威厳さに感心したという。

市民の公園と化しているが、本丸や天守台には石垣がよく保存されている。現存する建物などはほとんど無いが、やはり石垣群はよく残っている。福岡市内にある黒田家の菩提寺・崇福寺に本丸表御門が移築されている。

 

 

 

(大天守台石垣)

  

(【左写真】大天守台石垣【右写真】小天守台への石段)

  

(天守台からの眺め)

  

(大天守台内部)

  

(鉄御門跡・天守台への入口となる)

  

(本丸跡)

 

(【左写真】本丸表御門櫓跡【右写真】本丸祈念櫓(本丸北東隅に鬼門封じのため建立)

  

(【左写真】二ノ丸跡【右写真】二ノ丸水の手門跡石垣)

  

(【左写真】三の丸にある黒田如水隠居地(慶長八年から翌年に没するまでこの地で過ごした)
(【右写真】三の丸にある旧母里太兵衛邸長屋門)

  

 (【左写真】現存する南丸(二の丸南郭)多聞櫓【右写真】崇福寺に移築された旧福岡城表御門)

 

(【左写真】下之橋(大手)御門(平成12年に不審火で被災したため、同20年に復元)【右写真】大堀)

 

(【左写真】伝潮見櫓(城内に50近くあった櫓の一つ)【右写真】城址北側の水堀)

  (2004年4月10日、2010年6月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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