楪城

標高500m 比高240m。新見城とも。

楪城(ゆずりは・岡山県新見市上市小谷)は、鎌倉末期頃に新見氏によって築城されたものと思われる。

その後、戦国時代に最後の城主新見蔵人貞経は、三村氏の侵入によって滅ぼされ行方不明となる。代わって永禄十年(1567)に三村元範が楪城主となり入城する。しかし天正三年(1575)の備中兵乱で毛利方の小早川隆景を大将として総軍二万騎が押し寄せ、宍戸備前守と中島大炊介元行の攻撃で落城する。元範は十騎ばかりで落ち延びたが、高尾の石指で、塩山城主の多治部雅楽頭景春が五十騎ばかりで追いかけて来、戦いの末討たれる。そして楪城は毛利方の吉川元春のものとなり、元春の家来今田上野介経高が在番となる。
その後、慶長五年(
1600)の関ヶ原の戦いで、西軍の毛利方は敗れ、楪城は廃城となる(『城址案内板』)。

楪城は、代表的な連郭式の山城で、山陽と山陰の交通の要衝にあり、南北に長く、高梁川と矢谷川に囲まれた天険の要害である。備中では松山城につぐ規模をもち、別名新見城ともいう。本丸・二ノ丸・三の丸からなり、本丸は標高490mの所にあり、二ノ丸の南と三の丸の北に大きな堀切がある。なお、三の丸の頂上付近には井戸も残っている。本丸は新見氏時代のもので、のち三村氏により二ノ丸・三の丸が増築されたものと思われる。この山城には名木の”楪の木”が生えていたので、その名がつけられたという(『城址案内板』)。

R180号沿いの案内杭より北西麓の矢谷に到ると登山道がある。三の丸へ行こうとしたが蜂と遭遇したため断念

(参考サイト:北の城塞

  

 

 

 (【左写真】本丸(4つの壇からなる)。【右写真】本丸一ノ壇。)

  

 (【左写真】帯曲輪(本丸と二ノ丸を結び、中ほどに櫓の基壇もみられる)。【右写真】武者走り。本丸南北を貫く。)

 

 (【左写真】二ノ丸。本丸より高い場所にあり、敵の偵察的要素が強い。【右写真】二ノ丸からの眺望。)

  

 (【左写真】花(端)の丸。本丸南西に突き出した郭で、敵を誘い込む捨て郭であったという。【右写真】本丸まで舗装された登城道が続く。)

  (2010年8月26日訪問)

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