大内氏館
大内氏館(山口県山口市大殿大路)は、大内氏24代弘世が、正平十五年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたとされる。 大内氏は、弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は中国・九州地方まで及んだため、山口は西日本の政治の中心地となった(『城址案内板』)。 また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人がこの館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富みと文化を誇ったといわれている(『城址案内板』)。 天文二十年(1551)大内氏31代義隆は重臣・陶晴賢の叛乱により滅亡した。 伝・大内義隆辞世の句 その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治三年(1557)、大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立したという(『城址案内板』)。 大内氏館だが、現在は龍福寺となっている。発掘調査がしばしば行われているようで、案内板なども充実していた。 |
(城址の航空写真)
(龍福寺境内図)
(【左写真】池泉庭園跡。館跡には3つの庭園があった。現在整備中。〔2008.10〕)
(【右写真】枯山水庭園跡。大内義隆の頃のものだとされる。)
(【左写真】石組溝跡(館西辺の排水溝跡)【右写真】西門。敷地内の区画を仕切る内門。推定復元された。)
(龍福寺山門)
(【左写真】大寧寺〔大内義隆終焉の地〕)
(【右写真】大寧寺経蔵跡。陶軍との戦闘の際に義隆重臣冷泉隆豊が奮戦し自害したという場所。)