隼人城

隼人城(はやと・鹿児島県霧島市国分上小川)

伝承に隼人城は熊襲・隼人の居城であったといわれているが、山頂に城山公園設置のため、県文化課と国分市が発掘・学術調査を行ったが、伝説のとおり、縄文・弥生期から古代にかけての住居跡や石器・土器類をはじめ、炭化した籾などが多く出土し、古代に人々が居住していたことを裏づけた。

応永(13941428)の頃、隼人城には税所左馬助淳弘が居城したと伝えられている。南北朝期はめまぐるしい変転があるので、詳細は明らかでない。
慶長九年(
1604)、島津義久が当城の南麓に館を築いて、浜之市富隈城から移ってきた時、当城も義久の城塞となった(『日本城郭大系』)。

城址は城山公園となっていて、遺構が明瞭ではない。舞鶴城の詰の城として機能したとされている。

 

  

 (【左写真】城山公園記念碑。【右写真】城跡は公園となっていて遺構は確認しづらい…。)

  

 (【左写真】城址からの眺望。【右写真】城址遠景。)

  (2010年9月15日訪問)

 

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城と古戦場 

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