清水城
清水城(鹿児島県鹿児島市清水町)は、南九州特有の火山灰台地である吉野台地が低く南へ延びる丘陵の端に位置し、山麓に居館があった。 山上からは稲荷川流域の市街地が一望のもとに望まれ、要害の地であったことがうかがえる。また山麓の居館の置かれた所には、主殿十二間や厩・雑掌所などが揃った屋形造りの建物があったことが『山田聖栄自記』に記されている。 清水城は、島津元久が父氏久の志を継いで東福寺城が狭隘なのを克服すべく築いたもので、以後貴久が内城に移る天文十九年(1550)まで八代の居城となった。この間、元久の没後、元久の母との関係から長子犬千代を推す伊集院頼久と、元久の腹違いの弟久豊との間で跡目相続をめぐる争いが生じ、頼久によって清水城は焼き払われた。この清水城を中心に上町一帯に城下町が発達し、現在の鹿児島市の基礎ができあがったという。貴久が内城へ移ってのちは大興寺・大乗院などの寺院の敷地となった。 現在、清水城の居館址には清水中学校が建てられ、また山城の城址も耕作地となって原形はほとんどうかがえない。しかし、清水館を中心として発達した初期の形態や馬場跡などは大部分がそのまま残されており、当時の状態をしのぶことができる(『日本城郭大系』)。 城郭・居館としての遺構は見られない。 |
(清水中学校。背後が詰の山城)
(2010年9月15日訪問)