鹿児島城

(鶴丸城)

鶴丸城(★★鹿児島県鹿児島市城山町)は、鹿児島湾を隔たる西北約1kmの城山の南麓に位置し、以前に上山氏の拠った上山城がその背後にある。

鶴丸城の名称は、その地形が鶴が翼を広げたのに似ているということからつけられたという。築城の正確な年代や工程は不明とされている。

鶴丸城は他藩のような近世城郭ではなく屋形造りの居館であったところに特徴がある。さて鶴丸城は元禄九年(1696)、大火に見舞われた。この大火により城内にあった宝物も焼け、御記録所も全焼して貴重な記録や文書類が灰と化した。
しかし復旧は急には進まず、広間や対面所の復旧が成って藩主網貞が城に帰ったのは八年後の宝永元年(
1704)で、すべての落成は同四年七月であったという。

明治に入って、鶴丸城内に熊本鎮西鎮台第二分営が設置され、歩兵一大隊が駐屯していた際、兵営内から出た火で鶴丸城はまたも全焼してしまった。のち、征韓論に破れて帰郷した西郷隆盛は、この焼跡の一画に私学校をつくることになるのである(『日本城郭大系』)。

本丸は黎明館(鹿児島県歴史資料センター)とっている。遺構としては本丸を囲む広大な石垣と水堀のみである。

 

(明治の古写真。中央がかつての御楼門。)

 

(【左写真】本丸跡に建つ黎明館 【右写真】水堀跡(幅8〜14mあり、今は睡蓮が一面に植えられている)

 

(【左写真】御楼門跡(かつての大手門で、二層の入母屋造りの櫓門であった) 【右写真】御楼門内石垣に残る西南戦争の銃弾跡)

  (2010年9月16日訪問)

 

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城と古戦場 

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