宇和島城

宇和島城(★★★愛媛県宇和島市丸の内)板島丸串城とも。

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
その後、天正三年(
1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。その後、同十五年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。
文禄四年(
1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。慶長十三年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同十一年(1671)に至り、完成した(『城址案内板』)。

宇和島城です。城跡もよいのですが、幕末の宇和島藩に思いを馳せて市内を散策しました。宇和島は太平洋戦争の際に幾度となく空襲を受け残念ながら城下町の往時の面影をうかがうことは困難です。城跡も天守閣と苔むした石垣を残すのみです。「天守閣と城山だけが凝然と青い空をささえていて、その孤独さは悲痛なほどである」(司馬遼太郎『街道をゆく』)。

 

現存天守閣(藤堂高虎が創建した望楼型天守を、伊達宗利が層塔型に再建)

 

(【左写真】本丸から宇和島湾を望む。【右写真】二ノ丸跡。)

 

(【左写真】井戸丸跡(城内で最重要視された井戸があり、厳重に警護された)【右写真】井戸丸門跡の石垣。) 

 

(【左写真】櫛形門(一之門)跡の石垣。【右写真】三之門跡。)

 

(【左写真】山里倉庫(城内で武器庫として使用され、現在は城山郷土館となている)【右写真】登城口に移築された藩老桑折氏武家長屋門)

 

(【左写真】上り立ち門(城山南側の搦手道口に現存)【右写真】大手門古写真(昭和の戦災で焼失)

 (2011年1月13日訪問)

 

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 城の起源は天慶年間(938〜946)に起きた藤原純友の乱を鎮めるために、橘遠保がこの城山に籠もり純友を討ったのが始まり。戦国時代には西園寺宣久の城であった。文禄4年(1595)に南予8万石の大名となった藤堂高虎によって現在の城郭に整備された。高虎が今治に加増転封されると、富田信高を経て伊達政宗の長子・秀宗が10万石で入城し明治まで至る。

現存する天守は平和な時代を反映した軍事機能のない均整のとれた美しいものである。また登城途中の苔むした石垣群も見所である。近くには伊達博物館があり、教科書などで有名な豊臣秀吉の肖像画や、良主の多かった藩主・伊達家の遺品などが展示してある。

最後の藩主・伊達宗城は薩摩島津久光、越前松平春嶽、土佐山内容堂らと共に「幕末の四賢候」といわれた。当時のほとんどの藩主が泰平ボケで使いものにならない状態だったが、宗城は藩内改革や殖産興業を推し進め、欧米要人に「10万石の領主ではもったいない」と言わしめた政治家であった。

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