津和野城

標高367m、比高210m。一本松城、三本松城、石蕗城とも。

津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた全国でも有数の山城跡である。

築城は、弘安の頃、この地の地頭として鎌倉幕府から補任された吉見三河守頼行の永仁三年(1295)に始まり、二代・頼直正中元年(1325)に完成したと伝えるが、まだその頃にはいまのような構えではなかったであろう。
吉見氏は、この地で十四代続いたが、慶長五年(
1600)関ヶ原の役にあたり、毛利氏に従って西軍に味方したため、敗れて長州に移り、ここは翌六年、坂崎出羽守成正(直盛)が入部した。
坂崎氏は従来の搦め手を大手に改め、北方に出丸織部丸を築くなどして城の構えを整えたが、千姫事件によって改易され、あとへは元和三年(
1617)、因州鹿野から亀井政矩が移封された。
亀井氏は、この地で十一代続き、隠岐守茲監に至って明治維新を迎えるが、その間、延宝四年(1676)の大地震によって城郭が大被害を受けたため、これをその後四度にわたって修理している。
したがって、いま見る石垣の大部分は、むしろこの時期の修築に成るものと見るのが妥当であろう
(『城址案内板』)

本丸は海抜367m、近世の絵図面などによると本丸を中心に城門六、櫓が十四あったことが分かるが、天守は貞享三年(1686)落雷のため焼失してから、ついに再建されるはなかったという。
その他の建物も明治七年(
1874)にことごとく破却され、今ではただ石垣と多くの曲輪跡が往時を偲ぶよすがとなっている(『城址案内板』)。

「津和野三本松城跡観光リフト」で楽に城址まで訪問できる。

戦国時代のものではないが、その遺構は良く残っている。ただ、長年の風雨によって崩落しかけている石垣などが所々見かけられ、保存の必要性も感じられた。


(城址の航空写真)

 (現地案内図)

  

(【左写真】三十間台〔本丸〕跡 【右写真】三十間台虎口 )

  

(【左写真】本丸からの眺望。【右写真】本丸から人質櫓跡〔手前〕)と三の丸〔奥〕)を眺める。)

  

(【左写真】天守台跡〔天守台は二の丸にある〕【右写真】天守台石垣 )

  

(【左写真】三ノ丸 【右写真】三の丸馬立〔手前〕と台所跡〔奥〕)

   

(【左写真】人質櫓石垣〔三の丸から〕 【右写真】太鼓丸 )

 

(【左写真】三段櫓跡石垣 【右写真】西門跡 )

 

(【左写真】東門跡〔亀井氏の代に大手門となった。H20年現在整備中。【右写真】南門跡〔三の丸内部から〕)

   

(【左写真】出丸 【右写真】出丸は家老・浮田織部が築城の指揮をとったことから織部丸ともいう。)

 

(【左写真】出丸石垣 【右写真】出丸虎口 )

(城址遠望)

 

 

(【左写真】嘉楽園〔山麓にある藩主亀井邸宅〕跡 【右写真】物見櫓〔藩主が祭礼等の催し物を見物した〕)

 

(馬場先櫓。藩邸にあったものだというが江戸時代後期のものらしい。)

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