伊予 松前城

松前城(★ 愛媛県伊予郡松前町筒井)の起源は明らかではないが、平安時代初期すでにこの地に定善寺(性尋寺、今の金蓮寺)があり、軍事・交通の要衝として境内に砦が設けられたのが始まりであろうといわれている。

松前城です。松山空港への帰りに偶然見つけました。ただ遺構は皆無でした。

 

「城址案内板」

松前城の文字が初めて文献にあらわれるのは、建武三年(1336)、南北朝時代南朝方の今田弥四郎貞遠のたてこもる「松崎城」を北朝方の祝彦三郎安親が攻略したとある。「松前」は、古来「松崎」「真崎」「正木」「柾木」「満崎」等書かれており、「松前」に定着したのは、寛永十二年(1635)松平定行入国以来である。
湊川の戦に楠木正成を討った功により、砥部の豪族大森彦七が松前城主を兼ねたが、やがて荏原の平岡氏と交替する。正平年間(1360年頃)穴草入道、同出羽守らが松前城にいたが、南朝方で九州に赴いていた河野通直が大兵を率いて松前浜に上陸、松前城を攻略した。以後、松前城は河野氏の本拠湯築城の西方海上防衛の出城となった。
その後、河野氏の武将栗上因幡守通宗、同但馬入道通閑らが松前城にいたが豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻し来り、松前城攻防の激戦が幾度となく繰り返された。天正十三(1585)年豊臣秀吉の四国征伐があり、河野通直は侵攻軍総帥小早川隆景の軍門に降って栗上氏らと共に安芸竹原に退去した。天正十六(1588)年、栗野木工頭秀用が松前城主となったが、秀次事件に連座除封された。文禄四年(1595)、加藤嘉明が淡路志智城より六万石をもって松前城に入った。翌慶長元年(1596)嘉明は足立重信らに命じ金蓮寺を現在地に移転、伊予川を改修して城郭及び松前港の大改修を行った。
松前城の規模は明確ではないが、地の利を得て自然の要害堅固の城であった。慶長二年(1597)には嘉明は松前城を根拠地として2400余名の将兵を率いて朝鮮に出兵した。慶長五年(1600)関ヶ原の戦に嘉明は東軍に従って出征したが、留守に毛利勢3000が三津浜に上陸、河野氏の残党と松前城をうかがったが佃十成らの勇戦により撃退した。
関ヶ原の功により二十万石となった嘉明は慶長八年(1603)松山城に移り松前城は廃城となった。天保以降二の丸を耕地化し、余り土を盛った所が現在地である。明治四十二年耕地整理により様相は一変し大正十一年十一月二十三日龍燈の松が倒壊して松前城をしのぶものがなくなった。大正十四年十月記念碑を建立し、昭和四十四年町指定史蹟となった。

 

 

(城址碑。遺構は全く残っていない…。)

 (2011年1月13日訪問)

 

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城と古戦場 

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