香春岳城

標高509m、比高400m、鬼ヶ城とも。

香春岳城(かわらだけ:★福岡県田川郡香春町大字香春)は、『豊前志』によれば、天慶(940)三年に藤原純友が築き、次男伊予次郎純年に家人を添えて守らせ、同四年、純友が滅んでのち純年は逐電したという。

保元二年(1157)、平清盛が太宰大弐になると、家臣越中次郎兵衛盛次に命じて香春岳山王宮の東に新たな城を築き、鬼岳城(香春岳中腹)と名づけた。平治二年(1160)、清盛が帰任の後は豊後の人緒方惟義・惟時が居城とした。治承二年(1178)には香春庄司孝義、建長年間(124956)には香春判官友義が居城し、弘安年間(127888)の頃には中尾兵部丞が居城した。建武年間(133438)からは、小弐頼尚、その子刑部少輔頼長、その子右馬頭頼光と三代在城している。応永三年(1396)には千手信濃守興房が少弐頼光を滅ぼして居城したが、同五年に至り、大内盛見に攻められ、城を枕に討死した。
その後原田氏が在城したが、天文年間(
153255)、原田五郎義種が大友氏に滅ぼされ、高橋九郎重種が居城した。天正十四年(1587)までは高橋三河守元種が居城したが、豊臣秀吉の先鋒黒田・小早川氏に囲まれ降伏した。慶長年間(15961615)の頃は、細川兵部大輔藤孝の次男中務少輔が居城し、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった(『日本城郭大系』)。

香春岳城は一ノ岳・ニノ岳・三ノ岳からなり、三ノ岳西側の五徳越峠に登山道がある。
一ノ岳は石灰石の採掘で消滅、他に竪堀や土塁等の遺構があるというが確認できず。三ノ岳まで強烈な岩登りを強いられたため、途中で棄権した。登城途中で「二ノ岳ファミリーコース」と「三ノ岳岩登りコース」に分かれるが、前者を選ぶのが無難である。

九州征伐で高橋元種が籠城した城です。ここで時間と体力をだいぶ消耗してしまいました…。登城の途中で分岐点があり、勇み足で「岩登りコース」を選んでしまいました。ここからが地獄の始まりで、延々と危険なロッククライミングをするはめに。「ファミリーコース」をおすすめしたい。採掘などで破壊されている箇所もあり、もともと遺構はあまりなかったのかもしれません。

 

  

(【左写真】三ノ岳頂上部。【右写真】三ノ岳からの眺望。)

 

(【左写真】石塁跡(ニノ岳への登城道)。【右写真】二ノ岳(奥)への道。)

 (2011年3月2日訪問)

(↓登城口の地図)

 

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