障子ヶ岳城

標高472m、比高350m。

障子ヶ岳城(☆ 福岡県京都郡みやこ町勝山松田)の創建は、建武三年に足利尊氏の命を受けて一族の足利駿河守統氏が築き、豊前の守護となった。

応安元年(1368)、千葉上総介光胤が統氏を討ち居城とした。同六年元旦、千葉氏は、慶賀の宴の最中に大内氏の大軍によって攻撃されて落城し、その後、大内氏の抱城となった。一時、千葉氏が奪還したが、長くは続かず滅亡した。

天正年間(157392)の初めには小早川隆景の抱城であったが、天正十五年(1587)の九州征伐に際しては豊臣秀吉の宿舎となった。のち、宇都宮氏が叛旗を翻した時、障子ヶ岳城に居城した添田雅楽介一族は宇都宮方についたため、同十七年に廃城となり破却された。
城址は北の味見峠と南の七曲峠との間に位置し、展望がひらけている
(『日本城郭大系』)。

崩落した斜面の保護工事のため全面通行止になっていた。登城断念。登城口は城址北側の味見桜公園にある。金辺川の対岸に香春岳城が立地する。

 

  

(【左写真】工事中のため全面通行止めとのこと…。【右写真】城址遠景。)

 (2011年3月2日訪問)

(↓登城口の地図)

 

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城と古戦場 

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