馬ヶ岳城

馬ヶ岳城(★★福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)標高216m、比高189m。

京都平野を眼下に一望する豊前の要衝、馬ヶ岳に城が築かれたのは、一説に天慶五年(942)ともいわれるが史料に乏しくはっきりしない。本格的な城の構えができたのは、おそらくもう少し時代が下ってのことであろう。
城の遺構は東西二つの峰を中心に郭が形成され、この西側の峰の平坦地が最も広く本丸跡と考えられる。また東側の峰から北に下る尾根には約
500mにわたる土塁も確認された。
江戸時代に著された軍記物語などには、十四世紀半ばから十五世紀前半にかけて義基、義氏、義高の新田氏三代が在城したことが記されている。南北朝から室町時代を経て豊臣秀吉による九州平定までの動乱の時代、豊前地域をめぐって小弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏などの群雄が覇を競った。この時代に馬ヶ岳城は
香春岳城、苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに戦略上の重要拠点として攻防の舞台となった。

天正十四年(1586)豊臣秀吉が島津氏征討を決めると、馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門は秀吉に降った。翌年、遠征軍を率いて自ら九州に上陸した秀吉は小倉城を経て、この城に逗留している。九州平定後、馬ヶ岳城は豊前六郡を与えられた黒田孝高が、拠点を中津に移すまでの居城となった。慶長五年(1600)黒田氏は筑前に移り、豊前は細川忠興の所領となった。このころ馬ヶ岳城も役割を終え長い歴史を閉じた(『城址案内板』)。

九州征伐では一時秀吉の本陣となり中津築城まで黒田氏の居城となった城です。曲輪や土塁等が確認できるものの遺構は思ったよりありませんでした。城跡の麓の二児神社に登城口がある。

 

  

(【左写真】本丸跡(新田氏の碑がある)。【右写真】本丸からの眺望。)

 

(【左写真】二の丸跡。【右写真】城址遠景。)

 (2011年3月2日訪問)

 

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城と古戦場 

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