豊前 中津城

中津城(★★ 大分県中津市二ノ丁)は、天正十五年(1587)、黒田氏が中津の地に封ぜられ、大塚山の旧塁を修めて居り、山国川に臨む丸山の低い丘を削って、翌十六年の正月から築城に着工、犬丸城の旧材を用いて戦勝の記念(犬丸越中守清俊の犬丸城を攻め滅ぼす)としたので“小犬丸城“とも呼ばれた。

黒田氏がこの城を築く以前には中津江太郎の拠った小規模な城があったが、これが大塚山の旧塁であろうか。中津江太郎は応永四年(1397)、大友氏鑑に従い田川郡。規矩郡に攻め入っている。黒田氏の入国を喜ばない宇都宮・野仲一族、これに随従する宇佐・下毛の諸将たちに対して孝高は討伐の軍を起こし、上毛郡日隈城を手始めに諸城を攻略して、野仲氏の籠もる長岩城の堅城を抜いた。宇都宮氏に対しては、黒田・毛利の連合軍二万騎で攻めたが大敗して退いた。そこで孝高は宇都宮鎮房と和を講じ、鎮房の娘を孝高の子長政に嫁がせることで停戦し、まず中津城の完成に力を注いだ。
城が完成した天正十六年、黒田長政と宇都宮千代姫の婚約成立を祝うため、孝高は宇都宮父子を中津に招いたが、これがかねてからの謀略で、宴会たけなわの頃、城中にひそませていた武士たちは一斉に鎮房と従者を襲い、これを皆殺しにした。さらに千代姫と従臣たち数十人を広津川原で磔にして殺した。黒田長政は直ちに宇都宮氏の本城に攻め込んでこれを制圧したので、宇都宮氏はここに滅亡した。
慶長五年(
1600)、関ヶ原合戦ののち、黒田氏は筑前五十二万石に封ぜられ福岡へ移り、その跡には細川忠利が入城した。このとき父忠興は小倉に入ったが、慶長九年、忠興は剃髪して三斎と号して中津に隠居し、忠利が小倉へ移った。忠興は城の三の丸を増築し、同十二年に完成した。次に外郭の工事を行ない、武家屋敷、町割りを定めて元和六年(1620)今日の中津の基礎ができあがった(『日本城郭大系』)。

 

城跡は中津公園となり、本丸のみ残る。黒田孝高が多忙を極める中、心血注いで築いた城であるが、本丸に残念な模擬天守が建つ。
近くの合元寺は鎮房が中津城内で謀殺された際、控えていた従臣も皆殺しにされた。以後門前の白壁を何度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られたという言伝えが残る。それほどまでに世人の同情を誘ったのであろう。

司馬遼太郎もこの天守を見て「中津というのは、そんな町か(「街道をゆく」)」と興ざめたと言ってます。ただ黒田時代と細川時代の石垣が交わっている箇所もあり城内や近くの合元寺には「城井鎮房及び従臣謀殺」の悲話が残り印象深い土地ではあります。

 

 

(城址絵図)

 

(【左写真】本丸模擬天守。【右写真】黒田本丸の石垣(右)と細川時代の石垣(左)が交ざる。)

 

(【左写真】本丸内の宇都宮鎮房を祀る城井神社。【右写真】水堀跡。)

(城址近くの合元寺の赤壁。)

 (2011年3月2日訪問)

 

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城と古戦場 

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