高嶺城

標高338m、比高290m。鴻之峰城、山口城とも。

高嶺城(山口県山口市上宇野)は、大内氏最後の当主・大内義長が毛利氏の侵攻に備えて弘治三年(1557)鴻ノ峰に築いた城。

同年、義長は形勢が不利となり長門国勝山に逃れたが、四月、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃した。義長が去った後、毛利氏は城の改修をし、市川経好を城番として置いた(『城址案内板』)。

永禄十二年(1569)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれている。
元和元年(
1615)、徳川幕府から一国一城令が出されたため、毛利氏は萩指月山城を残し、山口高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとした。寛永十五年(1638)高嶺城は廃城となったとされる(『城址案内板』)。

城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっている。主郭やその周囲の曲輪には石垣が巡らされ、礎石や瓦片が発見された(『城址案内板』)。

かなり険しい山城だが、石垣などの遺構は良好に残されている。山口県最大の山城との評価を持つ城郭である。楽に訪問するのであれば、山腹まで続く細い車道で「テレビ中継放送所」まで行って、そこから少しの登山で辿り着ける。


(城址の航空写真)

 (現地案内図)

 

(【左写真】主郭跡 【右写真】主郭の石垣跡 )

  

(【左写真】主郭の石垣跡 【右写真】曲輪跡には随所に石垣が残る。)

 

(主郭跡に立つ城址石碑など)

(頂上からの遠望)

 

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