池永城

池永城(★ 大分県中津市上池永)

池永氏は宇佐公池守の子宇佐権大宮司式佐の後裔で、薦神社の池守となった。天正の初期には池永左馬頭重則の居城であり、大友宗麟の豊前攻めに降った。

大友氏滅亡のとき、黒田勢は寒江堂を本陣として池永城を囲んだ。重則は一族はもとより大貞八幡の神官・社僧を動員して総勢八百五十人で籠城、寄せ手の軍勢は三千、城門から打って出ては引きさがり、攻防を繰り返した。
重則の妻は紅の小袖に白綾の鉢巻、大長刀を振るって十三人を斬り伏せた。しかし防戦も効なく、敵は二の城戸まで打ち入ったので、左馬頭はもはやこれまでと家臣に防矢を射させて一族二十余人と静かに自害した。
重則の子次郎は当時三歳、和泉国永久寺に逃れ、長じて帰郷、東小右衛門と名のり、大宮司を継ぐ。
城跡は鬱蒼とした森林に覆われ、西側の低湿地は水堀の跡で、城屋敷・城井戸などの地名が残る
(『日本城郭大系』)。

遺構は全くなく、現在は住宅地となっている。

 

 

(城跡と推定される場所)

  (2011年3月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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