豊前 大畑城

大畑城(★ 大分県中津市加来)

源義経は平氏追討のため、豊後の緒方三郎惟栄に命じて豊前に五城を築いた。大畑城もこの一つで、加来氏の子孫代々がその城主であった。

加来氏は中国の大内・毛利氏に属し、豊後の大友氏になびかなかった。弘治三年(1557)、大友義鎮は一万二千の軍勢を揃え、宇佐・下毛の諸城を攻撃したが戦わずして幕下に降る者も多かった。大畑城主・加来壱岐守成恒も大友軍に降伏した。大友氏が日向耳川の合戦で島津軍に大敗し、多くの有力な武将が討死して昔日の勢いが薄れてくると、豊前の諸将は一斉に反旗を翻した。
天正七年(
1579)、長岩城主野仲鎮兼は反大友方の諸城主を従え、まず坂手隈の藍原氏を討ち、つぎに成恒氏の田嶋崎城を攻略して大畑城を囲んだ。このときの城主加来安芸守統直は、福島佐渡守・成恒進士兵衛を伏兵として野仲勢の側面や背後から攻撃をかけたので野仲勢は退いた。大畑城側からは鐘を打って軍を止め、野仲氏は野仲太郎鎮貞を人質として出して和平が成立した(『日本城郭大系』)。

加来氏の大畑城は下毛郡における大友方最大の拠点で、反大友方の長岩城主・野仲氏の攻撃を、天正七年から同十四年までなんと四八回も受けたが、蠣瀬・成恒・福島の諸将が援助して撃退している。大友氏が滅んで、中津に黒田孝高が入り、城の修築を行うため下毛の土豪に命じたが、土豪たちは課役を拒絶して反抗した。天正十六年、黒田勢は福島佐渡守の田丸城を攻略して大畑城を取り囲んだ。三日三晩の攻防は寄せ手二百八十余人討死、城兵三百余人討たれてついに落城。城主加来安芸守統直は、従兵五騎で城を脱出、伊藤田の尾根を東に向ったが、秝大炊助の伏兵に囲まれ討死した。統直の子重基は土田村に退去し、細川氏中津城に入封したとき帰農し、その後裔が今に続いている。統直の墓は伊藤田の山中にある。城跡付近には付城・外堀などの字名があって、こんもり茂った森がその跡という(『日本城郭大系』)。

城跡と推定される場所に神社が建つが、遺構は確認できない。

 

 

(城址と推定される神社)

  (2011年3月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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