城井谷城

城井谷城(きいだに・★福岡県築上郡築上町大字寒田)は、宇都宮氏が城井谷渓谷の奥に築いて代々居城した。

建久七年(1196)、豊前国に地頭職を与えられて下野から宇都宮信房が下向。戦国時代、その子孫の鎮房のころ築かれた。
豊臣秀吉の九州平定のとき、鎮房は秀吉軍として戦功をあげたが、四国への移封を拒否し、一時城を明け渡して他へ移った。その後、城井城代となっていた黒田氏の家臣を追い払って立て籠もった。秀吉は黒田長政らに攻撃させたが敗北する。そこで偽りの講和を結び、当主鎮房を謀殺してしまった。ついで長政は城井谷に攻めよせ、当主を失った城井谷城は落城した。
孝高はこの勇将・城井鎮房を殺害したことを悔いて(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城に城井神社を創建し、その霊を祀ったという(『名城をゆく』(小学館))。

県道32号を南下すると「城井ノ上城入口」の石碑があるので進む。「三丁弓の岩」を過ぎたあたりに城址入口がある。突如の降雪の為、城址最上部までの登城は断念。

「三丁弓の岩」という要害を通り過ぎると、巨石でできた人一人がやっとかがんで通過できる表門がありました。ここはかなりの要害です。黒田長政が無理攻めをして大敗北を喫したとき、後藤又兵衛も重傷で護送され、この敗戦で長政との確執が深まったそうです。そんなことを思いながら表門の前に立つとこの鬱蒼とした城跡がもつ、来る者を拒む強烈なまでの閉鎖的な閉塞感を覚えます。

 

(城井谷城古図)

 

(【左写真】登城口(来るものを拒むから様な鬱蒼とした森へ続く)
(【右写真】三丁弓の岩(弓の使い手が三人いれば、大軍を撃退できるという)

 

(【左写真】巨石を利用した城井谷城表門。【右写真】城井渓谷の眺望。)

  (2011年3月3日訪問)

 

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城と古戦場 

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