豊後 安岐城

安岐城(あき・★★大分県国東市安岐町下原字古城)

大友親秀の弟・泰広が田原荘に入り田原氏と称したが、四代・貞広のとき国東町に飯塚城を築き、七代親幸のときに飯塚城の別城として海に臨む台地の上に安岐城を設けた。城跡は東が海、南に安岐川の流れ、西北には水堀を設けて守りを堅くしてある。

田原親幸は永享三年(1431)、大友氏の軍に従い、周防の大内氏との戦いに出陣して筑前で戦死した。天正八年(1580)、田原親貫は大友氏に叛旗を翻し国東で挙兵、麾下の水軍で府内の大友氏の本拠地を攻撃しようとした。
日向の耳川合戦で島津軍に大敗した直後の大友氏では、親貫の大軍を防ぎきれるものではない。しかし田原軍が国東を出発してから急に天候が悪化、海上は大時化となって親貫はやむなく引き返さざるを得なかった。大友義統は重臣を招集して田原親貫討伐を命じた。しかし重臣たちはこれに反対した。そればかりか田北紹鉄が熊牟礼城で叛乱を起こした。
当時、大友宗麟は義統に家督を譲っていたが、この一大事にみずから出陣、速見郡日出町に本陣を置いて田原氏の安岐城・飯塚城、それに鞍懸城を攻撃した。親貫は、毛利輝元・小早川隆景、それに筑前の秋月種実に援軍を頼んだ。毛利軍は水軍を安岐浦に派遣したが、浦部水軍の若林鎮興らに撃退された。安岐城でも激戦が展開され、宗麟の次男親家は天正八年十月六日、これを攻め落とした。親貫叛乱から十か月目である。
大友義統は、八坂甚太郎に安岐城を預けたが、慶長五年(
1600)関ヶ原合戦で西軍に属したため、東軍に属する中津城の黒田勢との別府石垣原合戦で敗れ、安岐城も黒田勢に攻め落とされた。同年九月十八日のことであった(『日本城郭大系』)。

城址は、住宅地に埋没しているが、本丸周辺の土塁と空堀が良好に残る。

 

(城址復元想定図)

 

(【左写真】本丸(右側)を巡る空堀【右写真】本丸を囲う土塁)

(土塁上に建つ天満社)

  (2011年3月30日訪問)

 

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城と古戦場 

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