杵築城

杵築城(きつき・★★ 大分県杵築市杵築) ※再訪

建長二年(1250)大友親秀の六男親重は豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし竹ノ尾の高台に築城し竹ノ尾城にいった。木付氏四代頼直のとき城を現在地の城山に移築。応永元年(1394)九月竣工、木付城と名付けた。
木付城を別の名を台山城、臥牛城また勝山城とも呼ばれるが、台山とは八坂川、高山川の合流地点に突出した台地に由来し、臥牛は台地の地形が牛の寝た姿に似ていることによる。勝山城のいわれは木付十六代鎮直の時代、島津義弘軍の攻城を受けたが天正十五年(
1587)二月これを撃退。勝利をおさめた武功にあやかるものである。
さて文禄二年(
1593)木付氏滅亡後、藩主の交代相つぎ正保二年(1645)松平英親が転封されてより明治に到るまで松平氏の治藩下に栄えた。杵築の地名は正徳二年(1712)八月徳川六代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字が杵築と書かれたことによる(『城址説明板』)。

城跡は城山公園として整備されており、模擬天守から眺める別府湾、八坂川の絶景が望める。再訪になるが、模擬天守がちょうど改修工事を終えたばかりであった。「模擬」ではあるが城下町にしっかり溶け込んでいる。しかし明瞭な遺構はない。

 

 

(案内図)

(改修工事を終えたばかりの模擬天守)

 

(【左写真】本丸からの眺望【右写真】本丸内部(多くの石仏が建ち並ぶ)

(城下町の風情を残す勘定場の坂)

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木付城。

豊前・豊後守護職大友氏の一族・木付頼直が応永元年(1394年)に海と断崖に囲まれた台地に新城を築いたのが始まり。

天正14年(1586年)に島津の大軍に囲まれるが木付氏16代鎮直が守り通した。

文禄2年(1593年)の朝鮮出兵の際に宗家大友義統が敵前逃亡を咎められ改易。義統群に従った17代統直は帰国の途中、門司の浦で自刃入水し大友宗家と共に木付氏も滅亡した。以後城主交代が相次ぎ、正保2年(1645年)に入部した松平英親が城を地続きの平地への移転を完了。

城跡は城山公園として整備されており、模擬天守から眺める別府湾、八坂川の絶景が望める。

 

(杵築の城下町を眼下に八坂川河口の台山に建つこの町のシンボル。)

(現在の城は昭和45年に復元されたもので城内には歴代藩主ゆかりの遺品が展示される。本丸跡に三層の復興天守閣・城門、塀なども一部復元。)

  (2011年3月30日再度訪問)

 

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