日出城

日出城(ひじ・★★★ 大分県速見郡日出町二の丸)は、慶長六年(1601)、日出藩初代藩主木下延俊は入国後直ちに築城にかかり、翌年八月には大方の普請ができ入城した。

城の縄張り(設計)は細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手穴生理右衛門が野面積みで築き、木材は鹿鳴越の大木を用いたといわれる。

別名暘谷城と呼ばれ、三代藩主木下俊長が中国古書『淮南子』より引用し命名したといわれる。本丸には三層の天守の天守閣をはじめ、二層の櫓五ケ所・平櫓が築かれ、これを中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え、外郭には武家屋敷や民家を取り入れた(『城址説明板』)。

城跡は日出小学校となっている。見事な石垣が随所に残っており見飽きることはない。町内に移築保存されていた隅櫓が、現在、城跡に移築工事している最中であった。

 

 

(復元図)

 

(【左写真】天守台石垣(三層の層塔式天守が建っていた)【右写真】天守東側の石垣と犬走り)

 

(【左写真】天守西側の望海櫓跡石垣【右写真】本丸空堀跡)

 

(【左写真】本丸から別府湾を臨む【右写真】隅櫓の古写真(現在は城跡に移築修復工事が行なわれている))

(時鐘櫓跡)

以前の記事

 慶長6(1601)年に豊臣秀吉の妻・ねねの甥にあたる木下延俊が二万三千石で姫路から移り築城し翌年完成。

築城にあたっての綱張は当時中津藩主であった義兄・細川忠興(延俊夫人加賀の方は忠興の妹)が行った。三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではないものの調和のとれた美しい城だったといわれている。

現在本丸跡には日出小学校があり、石垣・堀の一部・時鐘が残る。本丸下の海岸の遊歩道から別府湾が望める。

  (2011年3月30日再度訪問)

 

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