府内城

府内(荷揚)城(★★★ 大分県大分市荷揚町)

朝鮮の役で失敗した大友義統は、豊後国を没収され、鎌倉時代から約四百年間続いた大友氏は滅んで、家臣たちもそれぞれ散逸してしまった。文禄三年(1594)、府内には早川長敏が入り、福原直高は臼杵藩六万石に封ぜられたが、慶長二年(1597)、早川長敏が去った府内城(当時は上野丘の大友館)に入り十二万石を領した。福原直高は、石田三成の妹婿であった関係で、早川氏の時はわずか一万三千石だった府内藩が、一躍十二万石という破格の出世をした。直高は新城を大分川の河港「荷落ち」に築くことに決心し、慶長四年の四月に大半が完成。直高は上野の館から新城に入り、荷落城では縁起が悪いので「荷揚城」と命名した。福原氏の去った荷揚城には、またもや早川長敏が返り咲いたが、慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属したため失脚し、そのあとに竹中伊豆守(重利)が入城した。竹中氏が入った荷揚城は、まだ天守櫓・堀・石垣などが未完成であったので、竹中重利は家康に城増築の許可を願い出て、これを許された。慶長七年(1602)三月、四層の天守をはじめ櫓・塀など、堂々たる白亜の城郭が完成した(『日本城郭大系』)。

城跡は大分城址公園となっている。本丸内の内堀は埋め立てられているが、堀・石垣・天守台などの遺構が残る。江戸時代の火災・地震、昭和の空襲により、創建当時の建物は宗門櫓と人質櫓だけであるが、幾つかの櫓や大手門が復元されている。

 

(復元図)

 

(【左写真】天守台石垣【右写真】東南隅二重櫓(復元)

 

(【左写真】人質櫓(現存)【右写真】着到櫓(復元)

 

(【左写真】東南隅二重櫓(復元)【右写真】二重櫓跡)

 

(【左写真】大手門(復元)【右写真】廊下橋(山里丸と西の丸を結ぶ)

(現存宗門櫓)

以前の記事

大分城、荷揚城。

大友義統が文禄の役の不手際で改易になり、慶長二年(1597)に石田三成の妹婿・福原直高が12万石で入国し築城に着手する。慶長四年に概ね完成したが直高が入城後1ヶ月で改易になり、その後早川長敏を経て関が原後に竹中重利が入城。加藤清正の助力を得て慶長7年に4層の天守を含む城郭を完成。

寛保三年(1743)に火災で天守を焼失。城主が松平氏のとき明治を迎える。

城跡は公園となっており、濠・石垣・櫓などが残っている。広場には廊下橋が復元されていて、全国的にも珍しいとのこと。

現在の大分城址公園はかつて天守閣があった場所であるが戦国当時の本丸周辺の水堀は埋められている。公園の北西側の松栄神社は、「山里丸」があった場所。山里丸と西の丸間の堀には、廊下橋が架けられていたという。 廊下橋は他にあまり例のないものであり、復元されている。山里丸は茶会・能などの娯楽・芸能を行う場所であって、これを採用した城は少なく、他には大坂城や姫路城などに同様の記録がある。

  (2011年3月30日再度訪問)

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