大垣城

巨鹿城、牛屋城、東大寺城とも。

大垣城(岐阜県大垣市郭町)は、明応九年(1500)佐々木信綱の子息・竹腰彦五郎の築城とされる。

この地は古くから不破関が置かれ、畿内と東国、北陸を結ぶ交通の要衝であった。その後、戦国の騒乱の巷と化し、織田、氏家、池田、羽柴、加藤などと城主は交代し、文禄四年(1595)伊藤祐盛が天守閣を築いたという(『日本の名城・古城事典』)

関が原の合戦では西軍の拠点となった。徳川家康の主力は西進し、関が原まで進んで大合戦となったが、一方で大垣城でも福原長堯を中心に激しい攻防戦が繰り広げられた。二の丸、三の丸まで陥落したというが、長堯が家康の説得に応じて開城したのはすでに石田三成が敗走した一週間後であったと伝わる(『日本の名城・古城事典』)

現地は公園となって、各地に見られる近世城郭としての史跡。本丸付近しか遺構は残っていないようだが、四層の天守閣が復元されている。ただ、古文書には三層であったと記されており、四層は「死相」に通じるとして忌み嫌われたものである(『日本の名城・古城事典』)。

遺構は本丸付近しかない。昭和の復興整備で無理やり本丸西に門を造ったり、旧柳口門を本丸東に移築したりして旧態が失われている。

現地説明板の内容

大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名という代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後天文四(1535)年、宮川安定が城郭を築き、永禄二年(1561)大垣城主氏家卜全が城郭の建築工事をほどこしました。

天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年(1588)七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四回建て総塗りごめ様式で大変優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。

昭和十一年(1936)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年(1945)の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり、昭和三十三年(1958)五月着工、翌年四月昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。


(城址の航空写真)

 

 (現地案内図)

 

(【左写真】復元天守閣と石垣。【右写真】城門と城址石碑。)

  

(【左写真】「おあむの松」。関が原の際、徳川家康は、敵方として篭城していたおあむの父に世話になったことがあり、赦免した。おあむは西堀の松から舟の乗って城から逃れたという。)

 

2008年11月14日 16時 再訪

 

(復元天守)

 

(【左写真】乾隅(水之手)櫓 【右写真】艮隅櫓 )

 

(【左写真】東門(復興整備に伴い旧柳口門を移築した) 【右写真】鉄門跡 )

 

(【左写真】西門(昭和の修景整備に伴い造られた) 【右写真】水之手門跡 )

 

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