臼杵城
臼杵城(うすき・★★★ 大分県臼杵市大字臼杵)は弘治二年(1556)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。 この城は歴史が長いだけに、三度戦火を浴びているのが注目される。最初は天正十四年に島津軍に攻撃されたが、この時は宗麟が在城し、ポルトガルから輸入した国崩しと呼ばれる石火矢で撃退し、いちおう落城は免れたが、城下は散々に荒らされ、兵火に焼かれてしまった。これにショックを受けた宗麟は翌年、津久見の館で死亡する。次は慶長五年十月、西軍に加わった太田一吉の守るこの城を岡城主中川秀成が攻めたが、中川軍は撃退され、つづく佐賀関の戦闘でも太田軍が勝利し、中川軍の名のある武将はほとんど戦死してしまう。しかし勝った太田一吉は、すでに関ヶ原で体勢は決していたところから武士の面目は立ったとして、黒田如水の扱いを受けて開城し、伊予へ落ちていった。三度目は、明治十年(1877)の西南戦争の時で、旧臼杵藩士は八百余人で臼杵隊を結成、薩軍と戦ったが、あっけなく落城している(『日本城郭大系』)。 現在は臼杵公園となっている。周囲は埋め立てられているが、本丸・二の丸・空堀・石垣等が残り、往時を偲ばせる。 |
(臼杵城要図)
(【左写真】天守櫓跡(三層四重の天守で、福原直高のときに造られた可能性)【右写真】本丸と二の丸の空堀跡(奥に天守櫓跡)
(【左写真】二の丸櫓門(復元)【右写真】畳櫓(江戸期に建てられたものが現存)
(【左写真】卯寅口門櫓(城の搦め手に現存)【右写真】城址からの眺望(当時は周囲を海で囲まれていた)
以前の記事 大友宗麟は府内にある大友館を本拠としていたが、毛利・島津の圧迫に備えるため永禄年間(1562年)に臼杵の丹生島に新たに城を築いた。当時は四方を断崖で囲まれた海城で、天正十四年(1586)にこの城から南蛮渡来の大砲「国崩し」を放ち、島津家久軍を撃退した。 城島の先端には大きな岩があり、潮の満ち引きで、亀が首を出したりひっこめたりするように見えたことから「亀城」とも呼ばれ、その先端部分を「亀の首」と言われるようになったという。 大友氏の改易に伴い城主を福原直高、太田一吉を経て稲葉氏15代の城となり明治を迎える。維新後の明治10(1877)年の西南戦争で臼杵の旧士族800人が西郷隆盛軍を迎え撃つが、一日で落城する。現在は城の周囲は埋め立てられ、かつての海城の面影はないが、石垣、櫓、門など稲葉氏時代の遺構が残っている。
(城の周辺は埋めたてられ、かつての海城の面影はない。) |
(2011年3月30日再度訪問)