佐伯城
佐伯城(★★★ 大分県佐伯市西谷町) ※再訪 城山山頂の城址は海抜一四〇メートル、遠く近くな南豊の山々をめぐらし、番匠川は曲がりくねって佐伯湾にそそぎ、はるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。眼下には、県南の政治・経済・産業・文教の中心都市、人口五万の佐伯市街がひろがり、展望絶佳、歩いて十五分で登れる景勝の地である。 文化会館の裏山が城跡で、本丸を中心に見事な石垣が残る。登城道は三つあるが「独歩碑の道」は15分程度で山頂に着くのでおすすめ。 |
(城址案内図)
(【左写真】本丸跡の天守台石垣(創建当時は三層の天守があった)【右写真】本丸石垣)
(【左写真】本丸から二の丸跡を眺める【右写真】本丸(右)~二の丸間の石垣)
(【左写真】本丸から佐伯湾を眺める【右写真】西の丸跡(二の丸の外側に広がる)
(【左写真】西の丸~二の丸間の城門跡の石垣【右写真】三の丸櫓門(藩庁の正門として創建された)
以前の記事 平家追討の功により豊後国佐伯荘を与えられた緒方惟栄の子孫は佐伯姓を名乗り、豊後守護職の大友氏の家臣となる。 佐伯氏は16世紀はじめに栂牟礼城を築くが、大友氏改易後に入城した毛利高政が隣地の八幡山に新城の普請を開始する。 慶長七年(1606)に三重の天守を含む城郭が完成するが、天守は後に落雷により焼失。天守は再建されることなく、毛利氏と共に明治を迎える。 遺構はよく残り現在はハイカーが往来しているが、本丸近辺の石垣群は見事。とても二万石の大名のものとは思えないほどである。 (天守閣は築城後ほどなく焼失し、1617年には二の丸も焼失。1709年天守閣を除いて修復されるものの、廃藩置県の際に取り壊され、現在では石垣を残すのみである。) |
(2011年3月30日再度訪問)