津守館

津守館(★ 大分県大分市大字津守)松平忠直居館跡とも。

松平忠直は徳川家康の孫にあたり、父結城秀康の跡を継いで13歳で越前国北庄(福井)68万石の2代藩主になった人物です。元和元年(1615)に起きた大坂夏の陣で、忠直率いる越前兵は、真田幸村をはじめ3750余人もの敵兵の首を取り、さらに大坂城へ一番乗りを果たすなど目覚しい活躍をみせました。しかしこの年に公布された武家諸法度に定められている将軍家への参勤を怠ったから、元和九年(1623)隠居を命じられ、忠直は府内藩主竹中重義の「御預り」として豊後国萩原村へ流されました。このとき幕府から5000石の賄料が大分郡内に与えられ、同時に府内目付が派遣され、以後忠直はその監視下に置かれました。萩原館に3年間居住した後、忠直は寛永三年(1626)新たに津守村に建てられた館へと移り、慶安三年(165056歳で病死するまでこの津守館で過ごしました(『現地説明板』)。

同館は、「一伯公伝記」などの記録によると、2184坪の敷地を有し、四方に大堀が廻り、東西それぞれに門が構えられ、御居間・内書院・御凌間など20余棟の建物が建てられていたとあります。 津守在住中の忠直は、次男松千代、三男熊千代、娘おかんの二男一女をもうけ、また同地の熊野神社をはじめ、由原八幡宮、霊山寺、西光寺といった神社仏閣の再建や寄進に尽くすなど、仏神を厚く信仰し、家族とともに平穏な日々を送りました。忠直の死後、遺体は生石の浄土寺で火葬された後、遺骨は浄土寺、高野山、津守村に文骨され、津守の館跡にはその霊を祭った御霊屋が建てられました(『現地説明板』)。

館跡は公民館となり、遺構は全くない。

 

(館跡に建つ公民館)

  (2011年3月31日訪問)

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城と古戦場 

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