豊後 鏡城
鏡城(★ 大分県大分市大字竹中) 島津軍の豊後侵入に対処するため、大友義鎮(宗麟)は豊臣秀吉に援軍を要請した。秀吉は本隊が九州に到着するまでのつなぎの軍として、四国の仙石・長宗我部・十河の軍の出兵を命じた。府内に上陸した四国勢は、大友の家臣・戸次統常が誘導して鶴賀城救援に赴くことになり、大分市の上野の原から戸次川の左岸にある竹中村の鏡城に達し、ここで作戦会議が行なわれた。長宗我部元親・十河存保などの慎重論に対して、仙石秀久は直ちに渡河し鶴賀城を囲む島津軍を攻撃すべきだと主張し、ついに渡河作戦が決行されたが、島津軍の反攻に遭って四国勢は潰滅した(『日本城郭大系』)。 城跡は小高い丘で、県道622号線に登城口・案内標識がある。本丸付近を含めて整地・改変されていて旧情が不明。明確な遺構はない。戸次川古戦場跡が間近に見渡せる。 |
(城址に建つ記念碑)
(【左写真】城址から戸次川古戦場跡(大野川の対岸中央付近)を望む。【右写真】城址遠望。)
(2011年3月31日訪問)