豊後 岡城
岡城(★★★★ 大分県竹田市竹田)は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられる。 建武のころ豊後国守護大名大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝半ばの応安二年(1369)から後で、その城は木牟礼城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。 |
(【左写真】御三階櫓(天守)跡。【右写真】本丸跡。)
(【左写真】/二の丸跡(月見櫓などがあり、藩主の遊興的な曲輪であった)【右写真】三の丸跡(藩主の執務が行なわれた曲輪であった)
(【左写真】三の丸・二の丸の高石垣。【右写真】三の丸から西の丸方面を眺める。)
(【左写真】西の丸御殿跡(三代久清によって普請された隠居所)【右写真】西の丸御殿へ続く石段。)
(【左写真】大手門跡(内部から)【右写真】大手門前の石垣。)
(【左写真】大手門へ続く石段。【右写真】太鼓櫓門跡(城の中枢への入口で、厳重に管理された)
(【左写真】古大手門跡(朝日が眩しいため現在の位置に移された)【右写真】家老・中川覚左衛門屋敷跡(発掘調査が続いている)
(2011年3月31日訪問)