高崎山城

高崎山城(★★ 大分県大分市大字神崎)は十四世紀の南北朝時代に、豊後国の守護・大友氏によって築かれた。

記録に「高崎」の戦いが最初にみえるのは天平三年(貞和四・1348)のことです。この後、南北朝時代を通じて北朝方(大友氏)の拠点となり、南朝方(肥後の菊池氏が中心)の激しい攻撃の的となりました。特に建徳二年(応安四・1371)には菊池武光らの軍勢は数か月にわたって高崎城を攻め、戦いは百余度に及んだといいます。

以後、高崎城には永正十三年(1516)に、朽網親満一党が大友氏に反して籠城、また天正十四年(1586)薩摩の島津軍の侵入に押された大友義統(宗麟の子)が立て籠もったりしましたが、大友氏の豊後追放とともに廃城となりました(『現地説明板』)。

標高628mの高崎山が城跡で、急峻な山容である。曲輪・土塁・烽火台石垣等が残る
高崎山南側に登山口があり、駐車場まで車で行くことができる(隘路ではあるが…)。40~50分程登山すると山頂まで辿り着ける。きつめの登山のわりには、遺構はあまりありませんでした。

 

  

(【左写真】本丸土塁(奥に烽火台石垣が見える)。【右写真】曲輪跡。)

 

(【左写真】堀切跡。【右写真】写真では見にくいが竪堀跡が随所に見られる。)

 

  (2011年3月31日訪問)

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城と古戦場 

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