角牟礼城

角牟礼城跡(つのむれじょう★★★ 大分県玖珠郡玖珠町森)は標高577mの角埋山(つのむれやま)にあった城で、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく、三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。

角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明七年(1475)の志賀親家文書である。その後、天文二年(1532)や翌三年には「角牟礼新堀之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。

天正十四、十五年(158586)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄二年(1593)には豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596)からは毛利高政が日田・玖珠郡二万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。

今回、発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従ってこの城跡は文禄三年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。そして慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし来島は一万四千石の小大名であり、城をもつことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる(『現地説明板』)。

三の丸の駐車場から15分程度で登城。穴太積みの石垣が素晴らしく、その他の遺構も充分堪能できる。豊薩戦でも落城しなかった堅固な城である。

 

 

 

(【左写真】本丸跡。【右写真】本丸隅櫓跡と土塁(右側)

 

(【左写真】本丸虎口跡(発掘で階段状のものが発見された)【右写真】二の丸跡(礎石建物があった)

 

(【左写真】三の丸跡。【右写真】穴太積み石垣が随所が見られる。)

 

(【左写真】竪堀跡。【右写真】大手門跡。)

 

(【左写真】搦手門跡(大手門と同じ規模の門であった)。【右写真】城址遠景。)

 

  (2011年4月1日訪問)

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城と古戦場 

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